ア メ リ カ 西 海 岸 編 ~ そ の 1
ア メ リ カ ・ サ ン フ ラ ン シ ス コ
サ ン フ ラ ン シ ス コ と い う 街
サンフランシスコの牡蠣について述べる前に、サンフランシスコという街はどういうイメージであるかについて触れたい。
サンフランシスコを描いたものに、アルフレッド・ヒッチコック監督による、巧みなサスペンス映画「めまい」(1958年)がある。
高所恐怖症になったジェームス・スチュアート扮する元刑事が、キム・ノヴァク扮する友人の妻を追跡することによって、サンフランシスコを案内していく。
サンフランシスコのダウンタウンには三つの丘がある。コロンバス・アヴェニュー北東の海岸寄りにテレグラフ・ヒル、西側の中心にラシアン・ヒル、その南にノブ・ヒル、この三つの丘を迂回させずに道路を造ったので、道は高低差が激しく、坂道の街になっている。サンフランシスコは坂の街と言われる所以であり、ケーブルカーが観光名物である。
二人は、キム・ノヴァクを追う関係から、いつか親しくなって、郊外へと車は向かう。着いたところは、サンフランシスコから150キロ離れたサン・ファン・バウティスタ教会であるが、ここでキム・ノヴァクは突然錯乱状態になり、鐘楼に駆け込み、らせん階段を上って、塔の上から落ちて死ぬ。
彼女を失ったジェームス・スチュアートは精神的な病気になるが、退院してから彼女を求めてサンフランシスコの街をさ迷い歩き、とうとう再びキム・ノヴァクを見つける。
死んだ彼女が生き返るはずもないわけで、そこがヒッチコック監督のトリック・サスペンスストーリーが展開されるのが、何故に、ヒッチコック監督が「めまい」の舞台をサンフランシスコにしたのか、それについて触れたい。
サ ン フ ラ ン シ ス コ は 地 震 の 街
実は、サンフランシスコは地震の街なのである。
1906年4月18日、春とはいえ肌寒い日の朝、サンフランシスコとその近辺の大地が突然に暴れだした。
1906年という年は丙午であり、丙午の年は「この年は火災が多い」、「この年に生まれた女性は気が強い」などの迷信が生まれているが、確かに、1906年は世界で地震が多く発生したのは事実である。
まず、この年の1月31日にエクアドル・コロンビア大地震、マグニチュード8.8が発生し大被害を被ったが、この16日後、今度は当時カリブ海のイギリス領ウィンドワード諸島を形成するセントルシア島でマグニチュード7と8の間に該当する地震が発生し、死者は出なかったが、これが引き金で「火山性群発地震」が続いた。
この5日後、黒海からカスピ海まで走っているカフカス山脈に所在するシェマハ、モスクや寺院の多い古都で地震が発生した。ここも死者は出なかったが、4週間後の3月17日に台湾で大地震が発生した。嘉義(チアイー)地震とも梅山(メイシャン)地震とも呼ばれるもので、9,000戸の住宅が倒壊、1,227人が死亡した。この11年前の明治28年(1895)に、日清戦争による下関条約で台湾は日本の統治下に入っており、日本による驚異的な救助活動が行われた。
4月6日、イタリアのヴェスヴィオ山が噴火した。この噴火は紀元79年の伝説的大噴火よりも、劇的で強烈だったという火山学者もいるほどで、死者は150人だったが、頂上の噴火口の縁は、ほぼ完璧なまでに水平に削ぎおとされた。今日に見られる山の姿は、このとき以来のものである。
その直後の4月18日に、サンフランシスコの大地震が発生し、さらに8月半ば、マグニチュード8.3がチリ・サンティアゴから100kmのバルバライソの港町を襲ったのである。2万人が亡くなった。
当 時 の 状 況
1906年のサンフランシスコ大地震について、その当時の状況を100年後の2006年4月18日、AFPBBニュースが次のように伝えている。
「18日、1906年のカリフォルニア州サンフランシスコの大地震から100周年を迎える。この地震で建物は崩壊し、地震後に発生した『大火』は3日間燃え続け、地震で崩壊しなかった建物のほとんどが焼失した。人口45万人のうち20万人が住む家を失った」
如何に被害が甚大であったのかが分かるが、さらに、83年後の1989年10月17日にもマグニチュード6.9の大地震が訪れた。この地震は最近のことであるから、当時、サンフランシスコに出張していた日本人の記録も多い。その一部を紹介しよう。
「オフィスビル28階、4・5名での会議中に突然マグニチュード6.9の大地震に襲われ、窓ガラスを突き破って放り出されそうになるほど身体があちこちに飛ばされ、自力で立っていられない恐怖の余り、会議参加者全員が言葉を失った。壁に亀裂が入ったオフィスビル階段を夢中で走り降りてやっと外に出た。オフィス街の沿道は割れ落ちた窓ガラスの破片で覆われていた。オフィス街沿道に緊急避難したワーカー達を潜り抜けて辿り着いたホテルは、夕闇迫る時間帯で薄暗いロビーには手探りの宿泊客が不安げにざわめいていた。ロビー内片隅のバーにはロウソクが点滅し、身の置き所のない宿泊客が自棄酒なのかグラスを傾けていた」
地 震 の 多 い 理 由
何故にサンフランシスコ近辺が大地震に襲われるのか。それはサンアンドレアス断層による。この断層は、1906年の大地震を調査するために設立された、カリフォルニア州地震委員会の公式報告書で明らかにされている。
サンアンドレアス断層は西海岸にそって1,200kmも走っていて、そこに太平洋プレートと北アメリカプレートが接している。太平洋プレートは年に約4cm北へ移動し、北アメリカプレートは逆に南に移動しようとする。この動きがサンアンドレアス断層線でぎしぎしこすれあって、そのずれが激しくなると大地震になるという。
サンアンドレアス断層の地図を見ると、確かにサンフランシスコ市街を走っている。ということはサンフランシスコでは何時地震が発生してもおかしくない街であることが分かる。
つまり、サンフランシスコは激しい揺らぎの危険ゾーンであり、いつ「めまい」が訪れてもおかしくない街である。
ヒッチコック監督が1958年に、サンフランシスコを舞台に制作した31年後に大地震が発生しているのであるから、映画はそのことへの暗示であったかもしれない。
しかし、訪れたサンフランシスコは、明るい陽光と、坂道から見下ろす海が綺麗で、住んでみたい都市で常に上位に存在する美しい街という、魅力的な街であることは間違いない。
牡 蠣 養 殖 場
サンフランシスコはカリフォルニアワインで有名である。たまたま訪問した家がソノマバレーでワイナリーを経営していて、お土産にいただいたジンファンデル葡萄の「イレーン・マリア」という赤ワインは絶品だった。
一般的にはワインはフランスだ、という概念があるが、ワインコンテストを目隠しですると、世界各地で生産されている様々なワインが入賞し、かつてのようにフランス産が上位を独占することはなくなって、その中でもカリフォルニアワインの評価は高い。
そのため日本人の多くは、サンフランシスコの街中を一巡観光すると、一時間半ほど車を走らせてナパバレーかソノマバレーに向うことになる。
(タマレス・ベイ・オイスター近辺地図)
ここは全米一のワイン生産量を誇り、別名「ワインカントリー」と呼ばれるように400か所以上のワイナリーがあり、そこでワインを楽しむ。したがって、日本人のほとんどは、牡蠣養殖場に無関心である。
その日本人は行かない牡蠣養殖場は、ゴールデンゲートブリッジを渡って101号線を北上する海岸にある。海にはいくつも養殖場があるが、目的地はタマレス・ベイ・オイスター Tomales Bay Oyster である。サンフランシスコの中心から41マイル(66km)ある。訪問したのは2008年11月。
(タマレス・ベイ・オイスターの入口)
途中101号線から1号線方向に入ると大変な道になってくる。左側に海、右側に丘、交互に景観が猫の目のように変わって楽しいが、丘陵地帯の中を曲がりくねる七曲り道、素人には運転が難しいので、プロの日本人ドライバーにお願いしたが、その運転ぶりを後部座席からびくびく見つめ続けるほど厳しい道のり。
(タマレス・ベイ・オイスターの海)
ようやく到着したタマレス・ベイ・オイスターの浜辺、ここは一番カルフォルニアで古いオイスターベイである。1906年に開始している。大地震の年である。
この海では、1,500年頃からネイティブのインディアンが牡蠣を食べていた。また、その後アメリカ時代に入ってからは鉄道が走っていた。その当時はアトランティック・オイスターであり、当時は冷凍設備がなかったので、氷に入れてサンフランシスコまで、海から採って24時間以内で届けるようにしていた。
今の経営者は、ここで社長と奥さん二人で始めてから21年。それまでに4回持ち主が変わっている。この海はカリフォルニア州から使用権を借りている。この入り江の半分150エーカーだが、全部は養殖には使っていない。このほかに南のほうにモロベイ、サンタバーバラ、サンディゴにも養殖場がある。
現在、養殖しているのはパシフィック・オイスター、つまり、日本のマガキである。養殖方法はフローティングシステムを10年前から取り入れた。網の中に浮き袋をいれて、海中の上部に浮かせておく方法である。そうすると網の中の上のほうに太陽光が入り、プランクトンが発生しやすく、栄養分が豊かになる。
養殖する稚貝はすべて三倍体カキで、カリフオルニアの2ヶ所と、カナダ・ワシントン州の1ヶ所から仕入する。三倍体カキを使用する理由は、この海は自然の稚貝には向いていないと判断しているから。
養殖方法は11月から4月中旬までの間に、稚貝を網に入れ、少し大きくなってから網目の大きい袋に入れかえる。この時の稚貝生存率は65%である。
フローティングシステムのよい点は、波が網に影響し、牡蠣を動かしてくれることだ。海の深さは6フィートから7フィート。(1.8mから2.1m)それまでは台の上に網を置く方法だったが、これは網をひっくり返す作業が必要で大変だった。
成長するまで16ヶ月かかり、牡蠣の大きさで5種類に分けている。Extra Small, Small, Medium, Large, Jumbo 。
客の好みはSmallとMediumに集中する。出荷する牡蠣は4つの浄化槽で約1週間入れる。3週間も入れると浄化槽は栄養がないので味が変わるから要注意だ。
この日に試食した牡蠣は、隣の養殖場のもの。お互い品物を譲り合うシステムにしている。水温は摂氏10度にしている。養殖の割合は牡蠣が90%、ムール貝と Manila Clams マニラ・クラムが残り。
この海はナショナルパークだから再開発できないようになっているので、きれいである。海の水は28日間で入れ替わる。この湾を出たところは太平洋。牡蠣の出荷量は1年間で60万個というように、経営は小規模で行っている。
浄水槽から取り出した牡蠣を剥いてもらって味見する。この瞬間が牡蠣取材で最高の至福の時だ。牡蠣が育った海の味と匂いが口の中に広がっていき、其の昔、欧米では王侯貴族しか食べられなかったという風韻の味わい、一般店頭で食べる牡蠣とは比較にならない。
「うーん・・・。素晴らしい」と言い、ふと隣のドライバーを見ると「私は生れて初めて生で牡蠣を食べました」と少し情けないような声を発した。
これにはタマレス・ベイ・オイスターの社長がビックリ仰天で、眼を剥いて「日本人は刺身を食べるのに」と怒ったような声で指摘する。
しかし、これが一般的な日本人の実態だろう。日本では調理して食べるのが常識であり、欧米では生で食べるのが常識だから。この常識の違いが日本人を牡蠣養殖場に向かわせないのである。
社長が剥いてくれる牡蠣を遠慮なく食べ続けていると、ロシア人観光客が入ってきた。このタマレス・ベイ・オイスターの牡蠣は、毎日サンフランシスコのオイスターバーに出荷しているが、海辺で食べたいという人々がこの地に訪ねてくる。
そこで、社長にどこの国の人が多いかと聞くと、まず挙げたのがメキシコ人、ロシア人、その次に韓国人も来るなぁと言う。日本人はどうかと聞きますと、はっきり「来ない」との答え。アメリカ人を含めて、ここに来て食べる客の売り上げシェアは40%であるから、この浜辺に来る観光客は多いのだが、日本人の関心は「ワインカントリー」であって、これほど美味い新鮮な海の牡蠣にはない。
ア メ リ カ 西 海 岸 編 ~ そ の 2
ア メ リ カ ・ シ ア ト ル
海 辺 の 街 シ ア ト ル
ここアメリカ・シアトルの5月下旬の朝は気温摂氏13度。最高気温が20度。日中は晴れと曇りと雨がミックスする。陽が差しているのに雨が降り、空模様の変化は激しい。
シアトルはアップダウンが多く、歩くと結構大変で、アメリカらしい規模の大きい建築物が並び、海岸にイチローが所属するマリナーズの球場セーフコフィールドと、巨大なアメリカンフットボール場が並んでいるなど、日本の都市とは景観が大きく異なっている。
(イチローのポスター)
街角のショップウインドウにイチローのポスターが飾ってある朝の散歩、途中の交差点で背広にネクタイ、帽子を被った年配紳士が「アーユー チャイニーズ」と聞いてくる。「ノー ジャパニーズ」に、すぐさま「オハヨウゴザイマス」と切り替えてくる。交差点内で行き交う背の高い中年女性、黙って通り過ぎようとすると「ハーイ」と笑顔で声掛けしてくる。歩道ではシアトルマリナーズの野球帽を被った、いかにもスポーツマンらしい引き締まった体躯の中年男性、こちらと眼を合わすとニコッと「ハーイ」。歩いていて声掛けしてくるのは、どうもこざっぱりした服装の人で、十人に一人という感じで白人だ。声掛けしない目つきが厳しいのは黒人か移民系で、乞食も声掛けし手を差し出してくるし、ドリンカーみたいな人種も時折いるが、街全体の雰囲気は歩きやすく穏やかだ。
シ ア ト ル の 人 々 は 牡 蠣 が 好 き か
牡蠣について一般のアメリカ人に今回聞いてみた。聞く人の対象選定は難しい。なぜなら牡蠣は多くの人は食べないものだから。欧米ではどちらかといえば高級品に属する食べ物。ということはそれなりの生活レベルの人に聞かないといけないだろう。ということで今回はシアトル市内の会計士事務所にお伺いし、そこの会計士の女性4名からお話を聞けることになった。
こちらの会計士は日本と異なっている。日本のように監査を中心にしているのではなく、各企業の決算書や税務申告書を作成している。どちらかといえば日本の税理士業務にちかいと考えた方がよい。それぞれが個室を持って仕事をしているので、4人の方の部屋へそれぞれ移動し、お聞きした結果が次のとおりである。会計士の収入階層は中の上。
お聞きしたのは2006年5月、最初は32歳女性。牡蠣は一回しか食べたことがないという。サーモンは食べるし白身の魚も食べるが。牡蠣は高いレストランにしかないし、友達と行くようなレストランには置いていない。友達で牡蠣を食べに行ったということなぞは聞いたことがない。高いものを食べるということはステーキかカニとロブスターだ。魚そのものは好きだが。牡蠣は未知の食べ物だ。全く食べたいと思わない。タコと同じだ。日本人の友人とタコを始めて食べたがそれまでは知らなかった。パイク・プレイス・マーケット(生鮮市場)に行けば牡蠣があることは知っているが、駐車場が混み合うので行かない。牡蠣を食べるか食べないかは家族の文化によるだろう。夫の家系はベジタリアンだった。自分の家系はアイリッシュだ。ポテトは食べるが牡蠣は食べない。それと魚は水銀が怖い。妊娠したら魚を食べてはいけないと産婦人科の医者が指導するほどだ。BSEの牛肉も食べない。生産地を調べてから食べる。肉にFDAのシールがあるものしか買わない。レストランで食べ残ったものを持ち帰る習慣があるが、ステーキの持ち帰りだけは店で許可しない。鮭でも自然のものがよい。養殖よりは。オーガニック優先だ。倍近い価格で高いが仕方ない。出来るだけ自然なものを食べたい。
次は46歳女性。牡蠣は食べる。感謝祭サンクスギブンズデイ11月の第四日曜日が祭日。この日はターキー・七面鳥に剥き身の牡蠣を入れて、その牡蠣を取り出してオーブンで焼く。セロリやたまねぎやパンを混ぜる。
レストランでも食べるが生では食べない。八歳のとき叔父が牡蠣養殖していて生で食べるよう推奨されたが、匂いがすごくて、生で食べる気がしなくなった。生卵を食べないのと同じだ。
これを聞いてなるほどと思う。アメリカ人にとって感謝祭サンクスギブンズデイに、角切りにしたパンを用いた詰め物(「スタッフィング stuffing )」の七面鳥が、ディナーに欠かせないということは知っていたが、この女性は牡蠣を七面鳥に詰めていたのである。
三人目は45歳女性。牡蠣は食べない。叔父がオイスターバーを持っていて、バーベキューのときに牡蠣100個焼いたが、味が強すぎ、臭いが強くだめになった。潮干狩りには行き、あさりは食べるが。魚は白身。ヒラメとかソウルフイッシュとか。テラピア、サーモン。自宅での料理の配分は肉が40%、鶏が30%、魚が30%。肉は牛肉だ。BSEは全く気にしていない。
最後の女性は40歳。牡蠣は大好きだ。シアトル生まれ。レストランに行って牡蠣があれば必ず食べる。20歳前半まで食べなかったが食べてみたらおいしいので今は好き。牡蠣は赤ワインである。魚介類には白ワインということは知っているが、自分は赤ワインだ。ブロン牡蠣のことは知らない。子供のときは牡蠣を燻製にしたものをよく食べた。食べ方はクリームチーズとクラッカーと一緒に。ターキーに牡蠣を入れるのは一般的であるが自分はしない。牡蠣が食べられるときはどこでも食べる。大好きだから。
いかがでしょうか。これが海に近く、アメリカ社会の中では魚介類が多く出回っているシアトルでの回答です。人によって随分違っていると思いませんか。これが欧米人の個性というものでしょう。日本では牡蠣が好きか嫌いかで聞くと、半分くらいの人は牡蠣フライが好きだから、牡蠣は食べると言うでしょう。生では食べない人が多いですが、フライや鍋もので一般的に食べると思いますし、お聞きするとある程度平均的な回答が多いのですが、アメリカではこのような状況でした。世界の人々はそれぞれ異なることを、改めて認識したシアトルでした。
生 鮮 市 場
シアトルには公共の生鮮市場はないが、海辺に近いところにパイク・プレイス・マーケット PIKE PLACE MARKET があって、ネオンサインの看板には「PUBLIC MARKET CENTER」とあるから、ここが公共市場なのかもしれない。
ここは1907年に漁師が魚を売る場所として始まったところだ。アメリカで一番古いという。夏の観光シーズンには一日40,000人も訪れる。カニやサーモンなどと並んで牡蠣もある。牡蠣は氷の中に埋まっているものと、箱に入って並んでいるものとがある。
(パイク・プレイス・マーケット市場内)
店からは威勢のいい売り手の呼び声がかかる。こでは売り手と買い手のやり取りが見ものだ。買い手との話がまとまると、売り手はカニやサーモンをカウンターに放り投げる。これが見ものでパフォーマンスとして人気になっている。これを見るために、ここに来る観光客も多い。
魚売り場がある一階から降りた地下、ここにもみやげ物売り場がたくさん並んでいる。食べ物屋も多いし、装身具や玩具売り場もある。「ブッシュはバカだ」と書いた等身大のパネルも売っている。ここは民主党の地盤。前回の大統領選でブッシュはこのワシントン州では負けたことが、このパネルで証明されている。
パイク・プレイス・マーケットの真向かいの通り、通りといっても土産物屋とか食べ物屋が軒を連ねている、アーケード街の一軒が、世界的に成功したスターバックスの一号店である。観光客が大勢店の前で写真撮っている。スターバックスは世界で人気のコーヒーショップだ。カップを手に持ち歩いている人が多いのも、これも発祥地だからか。また、シアトルには飛行機のボーイング本社があり、マイクロソフト社のビルゲイツが住んでいる。ボーイングの工場がどこかに移転してしまったらしいが本社は残っていて、ANAが新型機を50機発注したときはすごかった。一週間くらい新聞・テレビでこの話題だけだった。シアトルは定年後住みたい街の世界ベストワンらしい。頷ける街である。
オ イ ス タ ー バ ー
シアトルは海の街。さぞかし魚介類が豊富だろうと思っていたが、一般人へのインタビューでも分かるとおり、魚を食べる人は限られている。更にまた、牡蠣が好きな人は少ない。だが、その限定された人たちが行くオイスターバーは、どのようなところなのか。シアトル随一のオイスターバーである THE OCEANAIRE に訪問した。ここでチーフシェフの Kevin Davis 氏から説明受ける。
Kevin Davis 氏は、シアトルの前は香港のシェラントンホテルでシェフしていた。そこでは20種類の牡蠣があったが、牡蠣をあけて水で洗ってから客に出していて、これでは海の味が消えていたと、思い出すような語り口。この方法はシドニーと同じだ。このレストランで5年いる。オーストラリア、フランス、カナダを廻ってきた。ルイジアナ出身である。
仕入れは、仲介業者がいて、各養殖場から仕入れてくれる。このルートが70%で一週間に2回仕入れる。養殖場から直接仕入れるのは30%。今日の18時に注文すると翌日の10時に入ってくる。24時間以内に海から採ったものという基準を設けている。
日本の牡蠣を最初に持ってきたヤマシロさんを知っているかと聞かれる。今は85歳から90歳くらいで元気だという。写真を見せようかといっていたが、このヤマシロさんは知らない。
店内の席数は250席。客は地元と観光客が半分ずつ。近くにコンベンションセンターがあるので、そこからの客が多い。
今日の牡蠣の種類は12種類。14種類のときもある。メニューを見るとブロンはない。このちかく以外の産地はニュージランド、東海岸、アラスカからも入ってくる。東海岸は海の味が強く、西海岸は味が微妙で込み入っていて繊細だという。気候条件や川の近くか、牡蠣の種類で味が変るという。そのとおりである。なお、クマモト牡蠣はアメリカで有名すぎるので、扱わない方針だという。珍しい方針だと思う。
牡蠣料理はオイスターロックフェラーだけ。5個で12.95ドル。
牡蠣で最も高いのは KUSSHI CORTES ISLAND で1個2.5ドル。この牡蠣はNYの有名なシェフでトーマス・ケラットが本の中で紹介し有名になった。フレンチランドリーというレストランを経営している。牡蠣の育て方に秘密があるらしい。どうも籠に入れて時折ぐるぐる回す方式になっていて、そうして育てるとふっくらとした殻となり、殻の深みが厚みとなって小ぶりだが豊かな牡蠣が出来る。牡蠣カウンターに行き味見させてくれる。食べてみてビックリした。全く他の牡蠣と違う。品がよい。上品さで過去に食べたどの牡蠣より優れていると感じる。これを食べて他の牡蠣を食べるとすべて味にコクがない。それだけ味が抜群である。レストランで食べた中で一番美味い。さすがに高いだけのことはある。
Kevin Davis 氏の接客工夫は、客に牡蠣を出すとき、オーダー順に出して、一つずつ解説をすることにしている。そうすると感心して納得してくれる。そのようなアドバイスが大事だ。牡蠣に合うワインはシャブリ、ムスカデ、ロワールのバーカンデーだという。地元ワシントン州のものはあまり奨めないのが引っ掛かる。地元ではここのワインは素晴らしいと宣伝しているのに。しかし、世界的にはワシントン州のワインは無名なので、Kevin Davis 氏があげたワインが牡蠣に合うことは、牡蠣通なら誰でも知っていることだし、いろいろ飲んで味わってみて、そり通りと思っているので大きく頷く。ただし、地元のワインは赤が美味いと、申しわけなさそうに追加するところが地元で商売している弱みか。
牡蠣は客が座るカウンターテーブル、その前にある氷の中に入っていて、そこから注文によって探し出し、その場で開けてくれる。これは始めてみたが合理的でショー的雰囲気がある。牡蠣は小ぶりのものしか扱っていない。大きいものは上品さが欠けるというのが主張。そうかもしれない。人によって好みが異なるが、高級レストランではあまり大きな牡蠣を扱っていないのは、世界的事実であるし、ここシアトルの THE OCEANAIRE の品のよいムードには小さい牡蠣が似合っている。フランスともNYとも異なる味わいのあるなかなかのオイスターバーである。
牡 蠣 養 殖 場
いよいよアメリカ西海岸ワシントン州の海に向かった。シアトル中心からから120km北に向かったところにある、TAYLOR SHELLFISH FARMS 会社の一つの養殖場、SAMISH BAY である。
FARMS に着くとマネージャーの JAMES HALL 氏が大きな身体で迎えてくれる。事務所で話を聞くが、とても親切。隠し事をしない方針ということで何でも教えてくれる。
事務所は海と至近距離にある。その事務所の裏をガタゴトガタゴト大きな音を立てて、シアトルからカナダに行く列車が走っていく。貨物列車は見飽きるほど長い車両が繋がって走っていく。客車列車少ないようだ。事務所の近くには駅がないので停まらないようだ。地元の人は利用していないだろう。当然、無人踏切である。
TAYLOR 社は1890年から養殖している。ワシントン州に12か所。メキシコ、カナダにもある。小さいところから大きいところまでいろいろある。訪問したこの SHELLFISH FARMS は1,700エーカーの広さ。大きいほうだ。
養殖には潮の満ち干が大事である。政府が発行する TIDE GUIDE を参考に作業する。今日の5月24日は9:59に潮が最も干く。天気のよいときはよく干く。
西海岸の海はアメリカ・カナダ政府が所有し監視している。ワシントン州では海水の調査は州、貝類の中味調査は政府である。海水より海底の地面にカドニウム害、水銀害が多いので真剣に調べているらしい。このことはシアトルでインタビューした主婦も心配していたから、関心が高まっているのだろう。
この養殖場の貝類収穫量全体の、65%はアジア向けに輸出している。香港、東京、シンガポール。アサリ、みる貝など。牡蠣は香港が一番だ。輸出向け専門の販売会社をつくって輸出している。
マガキ牡蠣は第二次世界大戦までジャパニーズ牡蠣という名前だったが、それ以後パシフイックオイスターにしたという。この話は始めて聞いた。何故パシフイックオイスターと称しているのかが、ようやく分かった。日本からマガキを持ってきたときに、MANILA CLAMS という貝が一緒についてきて、この貝がアメリカでは人気で、この会社が MANILA CLAMS 生産の全米一だという。
パシフイックオイスターの産卵はここで行っている。三倍体牡蠣であり、アメリカでは三倍体牡蠣が殆どだ。また、一年に一回だけお祭みたいな企画があって、このあたりに住んでいる一般の人に種牡蠣を売っている。これはビーチをもっている一般の人にもオイスターを普及させようとするものである。オイスターガーデンつくりだという。そうすると水に対して関心を持ち、水を綺麗にしようとする気持になるし、水を守る意識につながるからだという。
牡蠣養殖法は籠箱に稚貝を1,250個入れ、600kgあるが、これをフォーリフトで海の中に置いて、それに浮きをつけて置く。牡蠣が大きくなってから、満潮のときに船で浮きを引っ張って陸に運んでくる方法である。
アメリカでのマーケットではカリフォルニアが大きいという。理由はアジア人が多いことだ。アジア人はよいものは買う。アメリカ人はバーベキューで夏に牡蠣を食べる。牡蠣の最悪の季節に食べる習慣がある。この習慣はよくないがアメリカ人は分かっていないと慨嘆する。
とにかく親切な説明で感激していると、その理由が分かった。マネージャーの JAMES HALL 氏は、自宅に日本人の高校女子学生をホームスティさせていたことがある。その写真を見せてくれる。いつも持って歩いているらしい。今その日本の留学生はスエーデンの大学に行っていると、自分の子供のように自慢する。その子のおかげで日本びいきになったらしい。一人一人の行動が大事で、国の評判はこうやって決まっていくのであることを、現場に来てみて分かる。
ブ ロ ン 牡 蠣 の 養 殖
ところで、ここにはブロン牡蠣を養殖している。ブロン牡蠣の養殖は難しい。本家のフランスでも養殖地は限られている。
マネージャーの JAMES HALL 氏はとても親切であるから、ブロン牡蠣の養殖現場を見たいというと案内してくれる。ただし、ブロン牡蠣の養殖は地蒔き方式のため、潮が引いたときに現場に行くしかない。
潮が引いた海辺、そこは泥海である。海底が岩盤でないので泥沼である。そこで、特大の腰まである長靴で歩いていくのだが、泥に足が埋まって何回も歩けなくなった。靴底が泥の中に埋まってしまう。さらに、倒れそうになり手を海底について泥だらけになり、JAMES HALL 氏が手を引っ張ってくれ、ようやく泥底から脱出できるという状態が続き、どうにかたどり着いたところが、広いブロン牡蠣養殖地であった。
海底に500万個、稚貝から育って2年目、一般的にまだ小さいが、時折巨大な牡蠣もあり、それらが一面に散らばっている。これを手で拾ってかごに入れ、浮きをつけておいて、満潮のときに回収に行くのである。
(海底のブロン牡蠣)
この現場に行くのも大変だったが、帰りはもっと大変で、行きと同様の危険状態となった。後で聞くといろいろな見学者が来たが、ここまで来たのは今回だけということで、表彰ものだということであった。
とにかく長靴の足が海底に埋まっていく感覚は、一瞬そこに身体が吸い取られそうな状態になり、このまま置いていかれたら陸地までたどり着かずに死んでしまうだろうという気持になった。実際にこの場所で体調不十分な社員がいて、この場で倒れたときには、車は入れないので、救急ヘリコプターを呼んで空から船を運んで乗せ、その船をヘリコプターのロープで引っ張って、ようやく陸地に引き揚げたという事件があったということを陸に戻って聞くと、大変な視察をしてしまったと反省しつつも、視察できたことを感謝した。牡蠣養殖場の視察も体力が必要とするのであって、今までのなかで一番大変だった。
ア メ リ カ 西 海 岸 編 ~ そ の 3
カ ナ ダ ・ バ ン ク ー バ ー
シ ア ト ル の 街
シアトルからバンクーバーは近い。2006年5月、定刻にシアトルを出たプロペラ機は定刻にバンクーバーに着く。客室乗務員は大男が一人だけ。それがジュースと気持だけみたいなお菓子を一個ずつ配って歩く。手間をかけなく質素というイメージだ。
ホテルはロブソン ROBSON 通りの42階建て。フロントが日本人女性だったので、地図を貰っていろいろ教えてもらう。ロブソン通りを歩いてビックリ。ここは新宿と池袋と銀座を合わせた感じのところである。しゃれたブティックもあるし、高級レストランもあるし、カラオケもあるし、居酒屋もある。世界中の食べ物屋が軒を連ねている。牡蠣を食べ飽きたので、ギョーザとラーメン店に入る。完全に日本語の世界。しかし、中で食べているのは80%が日本人以外だ。これがバンクーバーの実態を示している。箸でラーメン食べている。箸を使うことは当たり前の世界になっている。箸は日本人専用ではなくなっている。使い方は皆さん上手である。バンクーバーは飲食店が多いので食事するのに不便はないが、あまり多くありすぎるという感じで、博多の中洲か札幌のすすき野という感じだ。
ところで、最近カナダ人が自慢することがある。アメリカの傘の中で、外交も経済もアメリカべったりのカナダだから「カナダ人とはアメリカ人でないこと」などと自嘲気味だったが、ブッシュのおかげで最近は「外国に行って、カナダ人の振りをするアメリカ人がいる」という話が真面目なジョークとして語られている。アメリカ人がイラク戦争の問題指摘を避けるためらしい。
生 鮮 市 場
バンクーバーの生鮮市場はグランビルアイランドにある。ここは空港から市内に入るときに通るグランビル橋の下、フォールス・クリークに突き出した小さな半島になっているところ。かつては工業地区であったが、工場移転に伴ってゴーストタウンしていたところを、70年代に再開発し、パブリックマーケットやブティック、レストラン、シアター、ガラス工房などが並ぶファッショナブルなレクレーションエリアとして蘇った。週末には活気が溢れる。
勿論、魚屋もある。その店先で牡蠣を見ていると店員が寄ってきて親切に説明してくれる。そこでリュックを背負った中年おじさんが鮭の頭だけ買っている。頭だけ食べるのかと思って聞いてみると、カニを海で採るための餌にするのだという。バンクーバーの海では素人がカニを採れるのだ。これがカナダの実態である。自然をとにかく大事にする国民である。だから、日本みたいに付加価値をつけて、高いものを提供しようとする傾向は少ないのだ。リンゴでも小さくて安いものを好む。日本みたいに立派なリンゴで、ビックリするほどの高いものは好まないようだ。だから養殖についても疑問を呈する人が多いらしい。
(バンクーバーの市場内)
このグランビルアイランドにある四軒の鮮魚店を廻ってみた。それぞれ鮮魚を並べ、牡蠣も並べているが、その中で一番気に入った店は、LOBSTER MAN という名の店だ。ここに入って水槽に入っている牡蠣をみていると、女性店員が寄ってきた。ここは14種類の牡蠣がある。そのチャイニーズ系の若い女性、ゴムの前掛けをして長靴を履いている。
この店員にいろいろ聞くと、親切に教えてくれるし、なかなか詳しい。一番人気の牡蠣は何かと聞くと、MALPEQUE だという。これはカナダ東海岸のものである。次の人気は KUSSI とクマモト牡蠣だという。KUSSI はシアトルのオイスターバーで絶賛したものだ。
ここの水槽は全部海水で、毎日海から運んできている。牡蠣は一日で全部売り切れるという。この女性店員、いずれは自分でオイスターバーを開いて、独立したいからこの仕事をしているのだという。目標を明確に口にするのは成功する秘訣だ。頑張るようエールを贈って店を出る。日本人も見習ってほしい。目標を持ち常に口にすることを。
オ イ ス タ ー バ ー
バンクーバーのオイスターバーに行ってみた。そこはイエールタウンである。イエールタウンは最先端のスポットとして人気が出ている界隈である。何年前かは寂れた倉庫地域だった。再開発されておしゃれな店や、ギャラリー、映像プロダクション、輸入家具、ハブやクラブが集まっている。
ここに Rodney’s Oyster House がある。ここでの案内は J. Conor Lowe 氏が説明してくれた。まだ若い。赤いTシャツ姿。今まで訪問したオイスターバーの中では一番ラフなスタイルだ。ここは全員がTシャツかラフなシャツスタイル。制服はないようだ。カナダらしいと感じる。店内は倉庫をそのまま使っている。天上の柱が表れている。開店して八年。投資会社が経営している。お金持ちが投資した会社の経営。Rodney’s とは最初にこの会社を創った人の名前。トロントにも別経営だが同様の名前の店があるという。
(Rodney’s Oyster House)
J. Conor 氏は毎年7月29日に行われるこの通りのフェスティバルでの、西部カナダ地区牡蠣剥きコンテストで3位になった人物。1位も2位もこの店の人だと自慢する。優勝者の名前をつけてあるトロフィを見せてくれる。一位の BOB はアイルランドの世界大会に出場した。この通りでの牡蠣剥きコンテストは、20個の牡蠣を開け、それを皿に美しく並べるということと、その速さ競う2項目である。与えられる牡蠣は20個だが、審査は18個で行う。18個で1分20秒だった。80秒ということ。1個当たり4.4秒。世界チャンピオンのパリ・ゴンチェさんは1.7秒だから、大したことはないが、ここでは早いほうだろう。実際に剥いているのをみたが、板を台にしている。パリのエカイエとは大分技術差があると思う。しかし、けなしてはいけない。パリのエカイエは牡蠣剥きの専門職で世界一なのだから。
仕入れ方法は、供給業者がいて毎日電話がかかってくる。グランビルアイランドの LOBSTER MAN からもかかってくる。バンクーバー島からも入ってくる。全部で8種類の牡蠣。kussi 3.25ドル、Gorge 2.5ドル、Fanny Bay 2.5ドル、Metcalf Bay 2.5ドル、Malpeque 3.5ドル、Mac’s 2.4ドル、そのほかにもあるが牡蠣のメニューはない。名前を書いた表示板が牡蠣を置いてあるところにあるだけ。このあたりのセンスもいまいちだ。だが味はうまい。特に美味いのは確かに価格どおりで kussi と Malpeque だ。人気があるといっていた LOBSTER MAN の女性店員が言っていたとおりだ。ということは自分の舌も世界的になったものだと思う。
この店では一週間に5,000個から7,000個売れるらしい。一週6日間として一日800個から1.160個。確かに多い。金曜日は1.200個を越すという。
いよいよ牡蠣が来たので、白ワインを頼む。持ってきたのは地元でなくオーストラリアのもの。がっかりする。どうしてカナダでオーストラリアなのだ、と内心怒るがこんなことで折角の牡蠣を味見する気分を壊してはいけないと、怒るのはすぐにやめる。
ワインを注いでくれたグラスを見て驚いた。グラスは水を飲むものと同じだ。センスがない。しかしなみなみとこぼれるほど注ぐ。後で分かったがワインはサービスしてくれたのだ。ソースは全部自家製。赤ワインベース、カクテルベース、チリベース、すごく辛いもの、ウォッカベース、タバスコが赤と緑、醤油に似たソース、全部で9種類。牡蠣の皿への並べ方は店内に陳列してある順番である。求める客には説明することにしている。
牡蠣の料理もある。昼は Pan Fried Oyaters パン粉でフライしたもの。牡蠣フライと同じ。ただ牡蠣の形がそのまま出ているし大きい。味はなかなか。食べやすい。
J. Conor 氏はアメリカの大学で経済学と政治学を学んだという。父が外交官だったので七歳のときから パリ、ロンドン、NYと移って2年前にバンクーバーにきた。両親はオタワにいる。今は料理専門学校に通っている。ダウンタウンのクラシックフレンチだ。ここはこるコルドンブルーよりレベルが高く、NYのCIAに匹敵すると自慢する。夢は本を書くこと。今でも何冊かは書いた。コメデイタッチの自己経験談。売れていない。そこで先輩としてアドバイス。シェフとして成功してから書くと売れるというとその通りと頷く。分かっているのだ。オイスターバーも世界を廻ると、いろいろあって楽しい。
牡 蠣 養 殖 場
牡蠣養殖場はどこに行っても不便な場所にある。当たり前だ。人が多勢住んでいるところは自然が侵されやすいのだから、牡蠣のような生鮮生き物は、自然のままのところで育ってほしいから遠くても仕方ない。
バンクーバーも遠いところにある。市内からタクシーで30分のホースシュー・ベイに行き、そこからフェリーでバンクーバー島に渡らねばならない。大きな荷物を持ってフェリー乗り場でバンクーバー島のナナイモまでの切符を買う。フェリーは2時間ごとに出ている。大きな船でナナイモまで1時間半で着く。
ナナイモから牡蠣養殖場のあるところ、それはファニーベイ FANY BAY だが、そこに行くにはバスで2時間かかる。車でもその程度かかる。だから、バンクーバーの市内から待ち合わせ時間を入れて、約半日は必要とする。牡蠣養殖場の視察は朝でないと潮の関係で難しい。ということは養殖場の近くに前泊しないといけないことになる。ところが養殖場の近くには大抵ホテルはない。そこで離れた町に泊まることになる。そのホテルを朝早く出発する。牡蠣研究者は早起きでないと難しい。これが研究するための最低条件だ。
(バンクーバー島の養殖会社)
養殖場に向かった。宿泊したコートニーという町から88km離れている。タクシー代が75ドルもかかる。養殖場についてみると、事務所の前に牡蠣殻が積んである。白くなっていて鳥がついばんでいる。オーナー社長の GLEN HADDEN 氏に会う。腹の出たはげた人物。頭は剃っている。脳細胞がしっかりした精悍な感じ。案内された事務所の二階に上がったところが社長室兼応接室。コーヒーはでない。ここがアメリカと異なる。サービス精神が少ない。洗練されていない。
二階に上がったフロアから、下の作業場が見える。何をしているか。レストランの要請で牡蠣剥きし、海水で洗って牡蠣殻に入れている。片方の牡蠣殻だけにしている。これをハーフシェル HALF SHELL という。レストランが開ける手間を省いている。一部の店に提供しているらしい。
先日は日本からマニラ・クラム MANILA CLAMS について調べに来たという。マニラから来たからこの名前がついているらしい。このマニラ・クラムは北米・カナダで人気であるらしい。
さて、ここでの牡蠣の歴史は1920年代、この地に日本の材木業を含むいくつかの日本企業があって、そこの日本人が牡蠣をアメリカから持ってきた。それが自然に海で育ちはじめた。その牡蠣を採り過ぎてなくなってきたので、1950年代から稚貝を日本から輸入したのだ。
FANNY BAY の名前は、オイスターで世界的に有名だと自慢する。味はきゅうりに似ているが、これは海水の中にあるプランクトンのよるという。
GLEN HADDEN 氏は1984年から経営し始めた。12歳から漁師だった。このところにあった会社を買った。買ったときに何もなかったので、5年かかって準備し、1989年から営業開始した。今ではこのあたりで一番の会社だ。最初は家内と社員3人。一週間で3,000個採取する規模だった。今は定期社員が80人。一日35,000ポンド生産。これを363日営業している。1.270万ポンド(576万キロ・5,762トン)このうち牡蠣は一日28,000ポンド。成功の基は稚貝から育てる方式にしたことだ。それまでは自然の海の牡蠣を採取していた。
稚貝から育てる方式の説明に入る。壁のパネル写真にしたがって説明していく。何人にもしているのだろう。慣れている。まず、アメリカから産卵したばかりの卵ベイビーを買ってくる。写真は1,000倍に拡大したもの。400万個でゴルフボール1個分。これを20度の海水の容器に牡蠣殻いれて静かに14日間で育てる。しかし、これは海が静かでなくなったのでやめた。
そこで容器に牡蠣殻を入れ海水を入れる仕組みにした。その海水を20度にする。エアーも入れて流動化する。そこに卵ベイビーを400万個入れる。5日間。自然に温度を下げていく。牡蠣殻一枚に8個つく。それを海岸に並べ太陽に当てる。地面に直接あてないで筏的なゲタを履かせる。潮が引いたときにトランクで作業する。潮は16フィート、4.8mである。一年間で稚貝になる。これが今までの方法だった。
今は違う。微細な牡蠣の卵と同じ位の牡蠣殻を砕いて、タンクに入れかき混ぜる。1個に1個つくようにする。マイクロスコープで見ないと分からないような大きさ。ボールペンの押す部分の大きさになったときに、12並んでいる屋内の容器に入れる。ひとつに50万個入る。海水を流してプランクトンを入れる。一日中食べられるようにする。前の方法では1年間で1インチ、2.5センチしかならなかったが、この方法は12週で1インチとなる。これを120個ずつ箱に入れて15段にし、筏のうえに置く。こうすると8ヶ月で生育する。以前は2.5年掛かった。売れる牡蠣になるのは新方式で14ヶ月。前の方式では5インチ、12センチにするのに5年間。この方法で一気に生産性が上がって成長したのだ。
それとここの海は海水がよいらしい。その要因は山と太陽と雨だ。川も一杯ある。出荷先は8カ国。アメリカ、ヨーロッパ、アジアだ。シンガポール、マレーシア、中国、台湾。NYセントラルオイスターバーは15年間取引がある。生牡蠣を船で出荷する場合は冷凍、エアーの場合はフレッシュで。現在牡蠣だけでなくいろいろあって40タイプの商品がある。
牡蠣の洗浄しているところで牡蠣を剥いて食べてみる。味はよい。どこでもフレッシュは美味い。巨大な牡蠣からクマモト牡蠣に近い小さいものまである。
ところで、剥き身も扱っている。その牡蠣剥きはすべて手で行う。それを剥き身の容器に入れる。それは女性。剥くのは一人で一日3,000個くらい。採用して3週間で剥き身に合うかどうかの適性が分かる。剥く量によって給料が変る。40ガロン(180リットル)から20ガロン(75リットル)一人当たり剥く。担当は15人いる。力は必要ない。中国人の女性が向いている。女性は半分。
全体の構成はマニラ・クラムが30%、牡蠣剥き身が30%、生牡蠣が35%、その他の5%はマッスル、スカルプなどの新しい貝。また、全生産量の40%は他の養殖場から買っている。カナダブリティッシュ・コロンビア州BC内の養殖場から。別のところの牡蠣でも FANNY BAY 牡蠣として出荷している。カナダでは別に問題ないという。世界ではいろいろ制限条件も変化あるのだ。それが世界の実態だと改めて認識する。