クロアチア ~ そ の 1
クロアチアはバルカン半島に位置している
ブルガリアの中部を東西に走る二千メートル級の連山をバルカン山地と呼び、この山地を中心に黒海とアドリア海、およびイオニア海に挟まれた地域がバルカン半島。バルカンとはトルコ語で「山岳」を意味する。ルーマニア、ブルガニア、旧ユーゴスラビア全域、アルバニア、ギリシャとトルコの一部が含まれる。トルコのイスラム世界と、欧州のキリスト教世界が交差する地域でもあって、クロアチアは下図の赤い部分に位置する。
今クロアチアは平和だが、つい最近まで戦争状態だった
2012年1月22日、クロアチアはEU加盟を国民投票で決めた。ご承知の通り、今のEUはギリシャ問題から始まった財政問題で大きく揺れている。その渦中にEU加盟を国民投票で決めたというので、2012年3月1日、首都ザグレブに着くと、ガイドしてくれる日系青年に、国民の判断意図を尋ねてみた。
答えは「EU加盟決定への支持率は確かに66%だった。但し、投票率は30%だったので、国民のうち20%弱しか賛成していない」この回答に言葉を失っていると、追い打ちをかけるように「今日から消費税が23%から25%へ上がりましたよ」加える。
確かに、イリツァ通り沿いのケーブルカー、世界一短いケーブルといわれているが、ここに乗ると5クーナに上がっている。
クロアチアで最も重要な産業は観光産業であるが、木材資源が豊富なため、製材、家具等の分野も将来性が高いことと、漁業資源も豊富で日本へマグロを輸出しているというので、魚市場に行ってみた。マグロと書かれたものが1kg120クーナ(1560円)、その隣にトロがあり1kg80クーナ(1040円)である。
(マグロ) (マグロトロ)
トロの方が安いので、自宅で寿司を食べるのはクロアチアの方が得だと日系青年が笑う。市場の地下に行くと、納豆と豆腐を扱っているコーナーがあった。日本人女性と結婚したクロアチア人が始めたらしい。ちょうど30歳くらいの女性が買いに来たので、どのようにして納豆・豆腐を食べるのか聞くと「フライパンでごま油を使って炒め食べる」とのこと。なるほど、国が違えは食べ方も異なると思いつつ、やはり、日本食品はヘルシーと認識されていると感じる。
クロアチアの最大産業は観光である。人口450万人の国に、日本より多い900万人の観光客が訪れる。その観光ハイライトは、ドブロヴニクである。アドリア海の真珠と称えられるドブロヴニク。オレンジ色で統一された屋根が並ぶ旧市街は、高く重厚な城壁に囲まれていて、どこから見ても絵になる。1667年に大地震で被害を受け、1979年に世界遺産登録された。
だが、1991年にクロアチアが独立宣言すると、ユーゴスラビア連邦軍はクロアチアに侵入、ドブロヴニクは数千発の砲弾にさらされて街の70%が破壊された。ユネスコはこの破壊を見て1991年に危機遺産リストに記載し、1995年に戦争が終結すると、ユネスコの支援によって世界中からボランティアが集まって街を修復し、屋根や彫刻・レリーフはまったく同じ素材によって再建され、1998年には危機遺産リストから外され、アドリア海の真珠はふたたびその美しさを取り戻した。
クロアチア ~ そ の 2
何故にこのような戦争が勃発したのか
現代のクロアチアを歩き、ドブロヴニクを訪れる旅人の眼には戦争の跡は感じないが、確かに大きな騒乱状態が続いた。簡単にクロアチアの歴史をひろってみたい。
七世紀 | 民族大移動の時代にクロアチア人は、当時ローマ帝国の領域であったパノニアとダルマチアの地にやってきた。 |
925年 | 領主のトミスラヴがクロアチア人を統合して王になる。 |
1102年 |
東クロアチアはハンガリーと合併した。だが、国家としての主権は完全に保証されていた。次の世紀には、クロアチアの一部は当時の幾多の強大国が領有していた。同時にトルコの侵略に対する戦いが幾度かあった。 |
1526年 | クロアチアは強大なハプスブルグ王朝に組み込まれたが、部分的には主権を保持していた。 |
1835年 | 民族回復運動が始まり、クロアチア語の再確認、封建制の撲滅、議会制度の再確立が始まった。 |
1918年 | 第一次世界大戦後、スロベニア人、クロアチア人、それにセルビア人の王国が成立し、後にユーゴスラビア(南スラブ人の国)と名付けられた。 |
1929年 | セルビア出身のアレクサンダル王はユーゴスラビア議会を潰し、独裁が始まった。 |
1941~45年 | 第二次世界大戦は、共産主義グループの指導の下に、反ファシズム活動と戦闘を通じて、六つの共和国が形成された。この六共和国・・・スロベニア、クロアチ ア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア・・・はユーゴスラビアという共産党一党指導の連邦を形成した。1948年にはソビエ ト連邦ブロックから離脱した。 |
1980年 | ヨシップ・ブロゾ・チトー死去。 |
1981~89年 | 国内に経済・政治それに民族間の全般的危機が急激に高まる。 |
1990年 | クロアチアで戦後初めての民主的な選挙が行われ、共産党が敗れた。 |
1991年 | クロアチアの住民は国民投票で95%以上の賛成をもって独立を決定。セルビアとユーゴスラビア軍がクロアチアに対して戦争を始めた。 |
ドブロヴニクが破壊されたのは、この1991年に発生した戦争であるが、この戦争を理解するためには、多民族国家のユーゴスラビアに対する一応の理解がないと分からない。ユーゴスラビアの地は、第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって六カ国による、多様性を内包したユーゴスラビア社会主義連邦共和国となった。
また、ユーゴスラビアはチトーが共産主義者として東側陣営に属してはいたが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。即ち、チトーのカリスマ性と宥和政策によって、国内の民族主義者の活動が抑えられ、ユーゴスラビアに統一がもたらされていた。
だが、1980年チトー死去後、1990年近くになると、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で、東側世界に民主化が広がり共産主義が否定され、ユーゴスラビアにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことになり、チトー時代の体制からの脱却を図り始め、このプロセスの中で、セルビアとユーゴスラビア軍がクロアチアに対して戦争を仕掛け、ドブロヴニクが破壊されたのである。
ところで、1945年から90年まで45年間続いたユーゴスラビアでは、どのような教育が児童になされ、その後の戦争によってどのように変化したのか。それを「バルカン・ブルース ドゥブラヴカ・ウグレシィチ著 未来社1997年出版」から見てみたい。「学校では、ユーゴスラビアには六つの共和国と二つの自治州、六つの民族といくつかの少数民族が住んでいると習った。また、ユーゴスラビアにはいくつかの言語共同体が存在していること、三つの大きな宗教共同体・・・カトリック、セルビア正教会、イスラム教・・・とたくさんの小さな宗教団体があることも習った。
そして、ユーゴスラビアは、山がちのバルカン半島にある小さな美しい国だと習った」「大きくなったとき、習ったことはすべて本当であることがわかった。とくに山がちのバルカン半島にあるこの国の美しさは本当だった。
最初に役所に届けた書類では、国籍の欄にこう書いた。『ユーゴスラビア人』。わたしは、歴史家や政治学者がチトー主義と呼んでいるイデオロギーの枠組みのなかで大人になった」「本と友だちがわたしをとりまく世界だった。だから、ママが10年前から愚痴をこぼすようになった理由は、わたしにはまったく不可解だった。『戦争にさえならなけりゃ何があってもいいのよ、戦争にさえならなきゃねぇ』。
この言葉はわたしを苛立たせた。そして、ママの気苦労は歳をとったせいだと思った。『戦争』という言葉がわたしの頭のなかに呼び起こすことができたたったひとつのイメージはと言えば、ミルコとスラヴコという少年バルチザンが出てくる子供だましの漫画みたいな小説だけだった。『気をつけろ、ミルコ、銃弾だ!』『おっと、サンキュー、スラヴコ!』。主人公たちのやりとりはいつもこんな具合だった」「時間は円環のようにめぐり、ちょうど50年が経過して、20世紀の90年目に入ったところで新しい戦争が勃発した。今度の相手は『邪悪なドイツ人』でも、『腹黒いファシスト』でもなかった。
今度はこの国の参加者たちが、自分たちのあいだで配役を分配した。何千何万というひとびとが死に、家とアイデンティティと子供を失い、何千何万というひとびとが自分の国で不幸な亡命者、難民、ホームレスになった。戦争はあらゆる戦線でおこなわれ、あらゆる穴に押し寄せ、つけっぱなしのテレビや新聞記事や報道写真からちょろちょろ流れだした。
ばらばらに解体された国のなかで、リアルな戦争とメンタルな戦争とが並行して進行した。リアルな砲弾とメンタルな砲弾が、人間、家屋、都市、子供、橋梁、記憶を吹き飛ばした。現在の名でもって過去をめぐる戦争が遂行され、未来の名でもって現在に対する戦争が遂行された。新しき未来という名目で、戦争が未来をむさぼり喰った。戦いが、その手の国家は、ご存じのとおり世界史にはたくさんの実例があり、したがってなるべくしてそうなっただけのことだ」如何でしょうか。
クロアチア人の一児童が教育を受け、大人になった時の戸惑いと変化、これは日本が第二次世界大戦で敗戦した時と同じではありません。外国に負けたのでなく、今まで同じ国民と思っていた人々の間での戦争であった。
では、どうして戦争が起きたのか。それをクロアチアでガイドしてくれた日系青年に聞くと、達者な日本語で解説してくれたが、一生懸命聞くのであるが「よくわからない」という結果で終り、それを日系青年に伝えると「そうでしよう」と言い、実は、自分も的確には分かっていないと発言し、とうとうアメリカCIAによる謀略ではないかと発言するほど複雑なのである。
いわゆる内戦なのか、それとも元々国と民族が異なっていたのだから、当然にあり得る外国との戦争だと理解すべきなのか。そのところの線引き作業が難しく、この課題を解決すること無く日本に戻ってみると、日本の地はいつも穏やかで、安全・安心感に満ちあふれた美しい国であると実感でき、政治家の出来は悪いが、国民は素晴らしいと世界から称賛された社会に戻ることができ、ホッとする。
クロアチア ~ そ の 3
クロアチアの牡蠣は世界で一二を争う美味さ
さて、いよいよ牡蠣である。クロアチアの牡蠣は美味い、というのが旅行者のブログで語られているので、まずは、それをいくつか紹介する。
1. クロアチア旅行の宣伝パンフから
- 塩田で有名なストンの街は牡蠣の養殖もさかんで、アドリア海で一番といわれているほど。当コースでは、このうま味をたっぷり含んだストンの牡蠣もお召しあがりいただきます。
2. 牡蠣を食べた人の評価
- ① 噂通り、牡蠣は絶品でした。目の前の海で養殖されているということもあり、鮮度はお墨付き。ブルターニュでも牡蠣三昧をしましたが、それに比べ小振りで繊細な味でした。追加オーダして、結局二人で15個ぐらい食べてしまいました。ドブロヴニクで出される牡蠣もここから出荷されているそうですよ。
- ② マリンストンのレストランで食べてみたいのは、なんといっても生牡蠣。塩と並ぶストンの名産で日本では牡蠣といえば「広島」とか「宮城」だけど、クロアチアで牡蠣といえば「ストン」なのだ。レストランのまん前は牡蠣の養殖場。採った牡蠣をその場で剥いて出してくれるんだから 新鮮なことこのうえない。1年中牡蠣が食べられるとあってドブロヴニクからわざわざ車で食べに来る人もいるくらい。ストンの牡蠣は日本のものとちょっと違って平牡蠣という、平らでうすいタイプが多い。レモンを搾って、つるっといただくのがこちら風だ。
- ③ 塩田で有名なストン、牡蠣の養殖でも有名でクロアチア最高の牡蠣と言われているそうです。ストンは2つの集落に分かれていて、塩田はヴェリキ・ストン、牡蠣養殖場はマリ・ストンにあります。かなり運動してお腹が減ったので、時間が中途半端ですが、折角だからシーフードを食べようということになり、オープンテラスのレストランに入って、店のおススメのシーフードの入ったパスタ、リゾット、サラダ等を食べたんですが、やはり一番のお勧めは生牡蠣ですね出てきた牡蠣は日本のものと違い丸い形をしているんですが、味が日本の牡蠣と比べて癖がなく、お腹が空いていたこともあり凄く美味しくて何度も追加で注文してしまいました。牡蠣の値段は、忘れてしまいましたが、確かこの後行くドブログニクの半値ぐらいで、鮮度が違うせいか味も断然ストンの方が美味しかったです。
- ④ そして!もちろん!忘れてはいませんよ!牡蠣牡蠣♪。日本の牡蠣と違って、まあるくてぺったんこの牡蠣なんですが・・・めちゃめちゃ美味っ!レモンをぎゅぎゅっと絞ってかけただけの牡蠣なのに、潮気も絶妙で臭みもないし本当にすっごく美味しかったです。『ヨーロッパ1美味しい』って言われているそうですよ。
このような評判のクロアチア牡蠣。その産地はドブロヴニクから35㎞離れたMali Stonマリ ストン湾である。旅行者がブログで美味いと大宣伝しているので、ストンに着くとすぐにレストランに入ってみた。時間は14時過ぎで、客は誰もいない。誰もいないというレストランは、何となく心配であるが、折角なので牡蠣を注文した。白ワインは地元のワインをグラスで二種類を店に任せて出してもらう。
いよいよ生牡蠣が出てきた。味はどうか。あまり感心しない。こちらは世界中で牡蠣を食べている舌だ。その基準から判断すると、ブログで旅行者が褒めたたえる程ではないと感じる。まぁまぁというところだ。ワインも牡蠣向きでないような気がするが、出されたので少し飲む。何となく不満のまま、この日は早めにドブロヴニクに入り泊った。
早速、噂が高い世界の代表的観光地であるドブロヴニクを歩いてみた。まずは旧市街の城壁内に入らずに、背後にそびえる標高412mのスルジ山にロープウェイで登り、旧市街を真上から見渡してみた。
旧市街に戻って城壁に登って歩いてみる。階段が急で長く息が切れるが、空中散歩という感じで、ここでも街全体像がわかる。旧市街地を歩いてみると、細い路地には民家と民家をつないだ路地の上に洗濯物が干してある。クロネコが昼寝している角にはオシャレな喫茶店やブテックがあり、中世から続いている薬局もある。
夜になると、プラツァ通りをはじめ、主な場所はライトアップされて石畳が濡れたように妖しく光る状態を見たとき、このような巨大なモニュメント遺跡は日本にないという現実と共に、世界中の人々が、この素晴らしいモニュメントを目指してやってくるという実態を現地で確認した。
それと地政学的に見て、日本は極東に位置している。パリが8000万人もの観光客を集めるのは、ヨーロッパの中心に位置しているということも有利につながっているように、クロアチアも西ヨーロッパであって、ヨーロッパの旅行客は来やすいだろう。反して、日本は海に囲まれている。ドブロヴニクをジックリ歩きまわってみて、考えたのは日本の観光大国化への道筋の難しさであった。人口減対策として、日本滞留人口増を図るため、外国人観光客の増加策を研究し、各地でセミナーを開いているが、ドブロヴニクに圧倒され、すこしばかり悲観的になってしまった。だが、日本は日本の良さがあるわけで、それを訴求するため、改めて工夫し努力しようと考えたドブロヴニクであった。
クロアチア・アドリア海の状況
ここでクロアチア・アドリア海について全般的な状況を確認しておきたい。出典はBiological Institute生物学研究所20000 Dubrovnik クロアチアの「クロアチアにおける軟体類水産業の過去、現在、将来的状況」(1997)である。
まずはアドリア海の全般である。「地中海の最北部の湾であるアドリア海(面積、138,595平方キロメートル;平均深度173メートル)はその位置的、化学的、生物学的な特性により、北部、中部、南部に分類することが可能である。北部は浅く、深度50メートルを超えることは殆どない。
水温は6度から27度と広い範囲で変化し、ポー川からの多量の流水により、34%から37%の塩度を含む。主に内陸部からの多量な栄養素に因り、生物生産量は他の地域よりも高い。種類の限られた、沖部群集等の生物が大量に遠洋に生息することからも、その豊かさが見られよう。
中部は100メートルの等深線からパラグルジャ島入口まで広がり、Jabuka村付近では深度が最も深く(200メートル)、水温は10度から25度、塩度は36%から38%である。内陸部からの影響は比較的少なく、エコロジーに起因する変化は少ない。
南部はパラグルジャ島入口からイタリア南東部の海の入り口まで広がる。イオニア海の海流の影響を直接受けることにより、地中海の開いた部分とやや似ている。海深は深く(最深1,334メートル)水温幅は11度から23度、塩度は37%から39%。内陸からの影響は最小限である。
エコロジー的な特徴はクロアチアの海岸線で河口が閉じている湾と、部分的に開いている湾とでは若干異なり、海底の水が生息地へ与える影響は大きい。クロアチア沿岸は主にライムストーンによる岩で形成されている。貝類が豊富に育つ地域は、河口付近や閉じた湾の土の海底に限られる」
牡蠣に関しては以下の通りである。
「クロアチアの主な貝類の生産はアドリア海南部の都市ドブロヴニク市付近のBay of Mali Stonマリ ストン湾で行われている。この湾は入り江になって外界から保護されており、多くの地下水にも恵まれていることから、養殖に非常に適している。深さは10メートルから26メートル、水温は10度から25度、塩度は24%から37%である。
海底は土砂状である」牡蠣生産高はデータが古いが次の通りである。「クロアチアでの牡蠣の生産高は1990年でおよそ2百万個。そのうちマリ ストン湾での生産高が60%を占める。全ての商品が生で売られ、殆どが地元のマーケットで、1個US$0.10で販売される。約30%がイタリアへ輸出される」
マリ ストン湾のアドリア海での位置は下図○印のBにあたる。
ク ロ ア チ ア ~ そ の 4
牡蠣養殖場の海
以上が生物学研究所の記述で、この前提で牡蠣養殖の実態を確認するため、養殖業者のところに向かった。10時に港に着く。港には養殖業者の家が立ち並んでいる。家の裏側に続く小山みたいな丘には大きな木がなく、石灰岩だらけで、鉱物は何もとれなく、果実としてイチジク、アーモンド、オリーブ程度しかできない。
家はすべて石造りで、結構おしゃれな感じの建物であり、港もコンクート造りで整備されている。また、海に出る船もまだ新しく、これなら安全だと判断する。世界中の海で、地元の牡蠣養殖業者によって海に案内受けているが、中にはとても危ないと思われる船もある。しかし、ここはしっかりしているという感じをもつ。
ムール貝が大量に陸揚げされている。これを600㎞離れた町に持っていくのだと、トラックに積み込んでいる。
ここでの養殖は、牡蠣はブロンEuropean oysters (Ostrea edulis)と、ムラサキイガイ(Black mussel、Mytilus galloprovincialis)フランスではムール貝( moule)と呼ばれる二種類である。案内してくれる養殖業者は、父が四代目で今は五代目の息子と兄弟三人で経営していて、マリ ストン湾牡蠣全体の10~20%占めているという大手である。また、この海には60~70業者がいる。牡蠣は3月4月が全体の50%売れる。この時期の牡蠣は一番身がつくし美味いという。客は一年中あって、フランスのようにクリスマス時期だけ特別大量に売れることはない。
食べ方は生が90%で、調理する場合はフライ、焼く、牡蠣スープなど。ここの牡蠣は独特で、同じものはモロッコにしかないと聞いているという。牡蠣種の採苗時期は5月と6月で、海から採る。ということは天然稚貝ということになる。この稚貝をプラスチック網で採描したままで育てる方法と、セメントにつけて二個ずつ逆向きにしてつるす方法を採っているが、その区別は適当にしているとのこと。牡蠣養殖ブイは10m深さに下ろしている。
いよいよ養殖海域に着くと、と言っても港からすぐのところで、この海では黒タイ・チヌが牡蠣を食べてしまうので、牡蠣養殖地の周りを網で覆っている。
大体売れるまでに生育するには3年かかるが、一年半で売れるまでに成長する海域もあるがといいつつ、あそこだと指さして示したところは、橋の下あたりで、下から水が湧いているところである。地下水に栄養があるのだろう。
海は静か。今年一番ではないかという。今までは寒くて荒れた海だった。海底が見える。透き通ったきれいな海。沖縄の人が沖縄よりきれいと言ったという。山と言っても小山だがそのすぐに海があり、小山は松があり、島にも松があって松島にそっくりの絶景。
船を止めて、海中から牡蠣を上げる。ブロン牡蠣。この牡蠣はこのマリ ストン湾で昔からある地牡蠣であるが、一時と言っても30年前以上だが、マガキを導入したことがある。塩の業者の紹介で。
煉瓦についた稚貝を海に入れた。すると繁殖力強く、たちまちブロン牡蠣を圧倒していく。これはダメだと慌ててマガキを処分したという。海はきれいなので改めて浄水する必要はない。そのまま出荷できる。
但し、毎週、牡蠣は衛生検査をかかさない。牡蠣は全部ドブロヴニクへ出荷。海がきれいなのは周りに工場が無く、人も少ないのがきれいの要因だろうともいう。
このアドリア海の海水浄化度をグラフ化したものが生物学研究所資料にあったので左写真を紹介する。海水浄化Legend: レベル度をExcellent優良が青色、Good良好が緑色、Sufficient可が黄色、Poor乏しいが赤色で2011年調査であるが、見事にクロアチア海岸は青色で埋まっている。
ここの気温は昨年が最高35度まで上がったが、冬も寒くマイナス気温になる。特に今年は海水が凍ったほど。ところで、ひとつ相談だが、この船であの島へ行き、島は自分の所有物なので、海から採りたての牡蠣を食べてもらおうと計画している。一人20ユーロくらいを考えているがどうだろうかというので、それはグッドアイディアだと賛成する。理由はやはり採れた海のなかで食べるのが一番だからと伝えるとニコッとする。
さて、海から採りあげた牡蠣を、港に持って帰り、一口食べてみてびっくりした。昨日、レストランで食べた牡蠣とは全然違う。美味い。身が盛り上がって自然の甘さが気持ちよく、海のきれいさが舌に心地よくしみこみ、豊かな感覚が口の中に広がっていく。絶品である。今まで世界各地で食べたが、このクロアチア・アドリア海・マリ ストン湾が一番ではないかと思った。だが、すぐに思いだした。
そうだオーストラリアのタスマニア島もこの味わいだったと。タスマニア島で、ユウカリ樹木を背後に、海と川に挟まれた静かで穏やかな一角の牡蠣養殖場、今まで世界中で見た牡蠣養殖場では、一番理想的な環境だと感じたリトル・スワンポート LITTLE SWANPORTの牡蠣と同じくらいの素晴らしさと認識した。そのような判断結果を、社長と日系ガイド青年に伝えると「そうですか。ここは世界一ですか。
確かに海はきれいで、牡蠣は美味いと思っていたが、専門家から認められたのは初めてで嬉しい」と満面の笑顔である。価格を聞くと1個10から12クーナという。昨日のレストランは1個6クーナだったから、やはり品質が落ちていたのかと納得し、自分の舌は嘘をつかないと再認識した次第。
クロアチアの牡蠣が素晴らしいことに驚いた今回の世界牡蠣事情であった。