オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 1
オ ー ス ト ラ リ ア は 移 民 国 家
シドニーの街角を歩いていると、中国人の多いのに驚くが、これは観光客でない。オーストラリアに移民として入ってきた人たちである。オーストラリアは1901年に英国より独立、人口は2008年で2192万人、人口密度は3人/㎢であり、慢性的に人手不足であるので、移民政策を続けている。そのオーストラリアでの移民、認定されるには二通りある。日本の国籍にあたる「市民権」を受けるこ、これは参政権があり、もう一つ参政権はないが、年金や医療保険、教育などの対象となる「永住権」である。この中で市民権を取得した人数は、1949年に制度を導入して以来400万人に達し、全体人口に対し約20%に近くなっているが、今まで移民政策は揺れてきた。まず、移民受け入れの際、出身国を選別する「白豪主義」を1973年に撤廃、以後、アジア、アフリカ、中東などからの移民が主流になってきた。
しかし、いろいろ問題も発生した。例えば、1989年6月の中国天安門事件の際、逮捕された学生4000人を受け入れたが、そこに家族・親戚が一人当たり25人ついてきて、一挙に10万人入ってきたが、何も特技なく語学力なく、これを反省し以後規制が打ち出された。
その規制内容は、熟練技術者しか受け入れないということ。熟練技術者とは医療やIT技術関連など人手不足が著しく、育成に時間がかかる職種である。シドニー市内を案内してくれたガイドが教えてくれたが、ドクターならOKで、美容師とかケーキ職人、寿司職人もよい。そこで日本人観光客相手のドライバーやガイドの殆どは寿司職人の免許を持っているという。
オーストラリアは基本的に多くの業種で人手が不足して、人材難が人件費上昇を招き、インフレ要因になっている。そこで、2002年から移民人数を連続して増加させてきて、2007年には149,400人と80年代以降で最高となった。また、2007年末の総選挙でインフレ対策の切り札として、移民拡大を公約に掲げて政権交代を果たしたラッド労働党政権、2008年度は移民受け入れ枠を前年比で20%増とした。ところが、世界的な金融危機発生で、2009年はオーストラリア経済も失業率が三年ぶりに5%超えという実態になって、地域住民の雇用機会の確保のため、急遽、受け入れ枠の削減という変更を行った。このようにオーストラリアの移民政策は揺れているが、基本的に人手不足の国、受け入れ枠は一時的に減らしたが、年間10万人以上の移民が増える「移民国家」であることは間違いない。
なお、2007年に市民権を取得した出身国・地域は185を超え、国別上位は英国、インド、中国、次にランクされるのはイラク、アフガニスタン、スーダン、スリランカなどの政情不安な国が多い。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 2
シ ド ニ ー ロ ッ ク オ イ ス タ ー
牡蠣の話題に入りたい。オーストラリアのシドニーでは、シドニーロックオイスターが人気で、これはオーストラリア原産牡蠣である。マガキに比べるとちょっと小ぶりで、稚貝から二年半~三年半程度かかり生育する。マガキはここではパシフィックオイスターと呼ばれていて、一年で生育する。シドニーロックオイスターの味は、ちょっと塩辛く、香りが程よく残って、最後に舌に苦味が残り、ついもう一個食べたくなる、というのが実感である。2005年12月に訪れたFARMERS ASSOCIATION(漁業組合)の、牡蠣担当アナリストのRACHEL KING女史に聞くと、個人見解だがという前提つきで、シドニーロックオイスターは特に中年層に人気あるという。
その理由は、昔、養殖が始まる前にオーストラリアの海岸で、自然に育っていたシドニーロックオイスターを採って食べた記憶が残っているので、その思い出の味に出合えたというところからではないか、とも補足してくれる。確かにオーストラリアの海岸は、どこでも自然の牡蠣が採れる。養殖地はシドニーがある「ニューサウスウェールズ州」、それと「南オーストラリア州」とタスマニアの「タスマニア州」で主に行われている。だが、シドニーロックオイスターの養殖は「ニューサウスウェールズ州」が99%占めているのだから、シドニーに行ったら、地元産でシドニーっ子が自慢するシドニーロックオイスターを食べないとオーストラリア牡蠣の味は分からない。
オーストラリアは周りを海に囲まれているので、魚介類の種類も多く、フイッシュマーケットも大きな設備で充実している。波止場に接しているフイッシュマーケットでは、毎朝5時半から競りが始まる。競りに参加する魚関係者は、事前にフイッシュマーケットのコンクリート床に、冷凍して箱詰め並べられた魚と、生きている海老や牡蠣の新鮮さを確認してから、コンピューターが組み込まれた階段状の操作盤がある位置に座る。座った前面には大きな二つの時計版があって、そこに品名と価格が表示され、その価格が変化していく中で、競り落とす価格を手許のコンピーター画面でインプットする。落札すると、その関係社名が表示され、また次の魚に移っていく。競りの終了時間は8時である。直ちに精算額がアウトプットされ、魚の運搬が始まっていく。このシステムが導入されてから早くなった。以前は14時までかかっていた。毎朝7時から観光客向けに案内ガイドつきの見学が行われていて、世界中から訪れる。さて、フイッシュマーケットの競りを見学して、コーヒー片手に休憩テーブルに座ると、そこは牡蠣や魚の販売所になっている。競り落とされた魚介類が切り身で並んでいる。価格は競りより20%~30%高くなっている。それでも多くの人が買っている。一般の人も自由に入って買うことができるので、朝から買い物客が大勢来てにぎやかである。
(シドニーの牡蠣剥き)
フイッシュマーケットの表から入って最初の角で、牡蠣剥きしているのが眼にとまる。眼鏡かけた中年おじさんが、一人でせっせと牡蠣を剥いている。シドニーロックオイスターである。話しかけてみる。
「一日どのくらい牡蠣剥きするのですか」「そんなこと数えたこともないよ」「すごい量ですね」「一日5時間は剥いているよ」牡蠣剥き職人のプロである。
しかし、どうしてここで牡蠣剥きしているのか。ここでこの牡蠣全部が売れるのか疑問だ。そこで、また質問してみる。
「こんなに剥いてどこに持っていくのですか」「そこのウインドウに並べるのさ」「でも、これ全部はここで売り切れないでしょう」「そうさ。後はレストランから注文が入っているので午後届けるのさ」「へエー。レストランは自分で牡蠣剥きしないのですか」「しないよ。できないよ」
ここでようやく分かったことは、オーストラリアではフランスのような牡蠣剥き職人のエカイエが、レストランにいないという事実である。
フイッシュマーケットで午前7時から牡蠣剥きし始め、終わるのに5時間かかるのだから12時頃に終了し、そこからレストランに配達することになる。
ということは、客は早くて12時からの昼食と、一般的にはディナーとして食べることが多いので、18時過ぎになるだろう。昨夜にシーフードレストランで食べた牡蠣は、剥いてから随分時間が経過していたのだ。それにしては新鮮でうまかったが、それはどういうシステムになっているのだろう。これについては後ほど触れたい。
さて、ここで思わぬ人物に出会った。フイッシュマーケットにはいくつかの魚介類売り場がある。その一つの駐車場に面した売り場に入っていくと、当然、牡蠣が並んでいる。その前に立ってみていると「一つ食べてみるかい」と大男が声かけしてくれた。
「うまそうですね」「ほら! これがシドニーロックオイスターだから食べてごらんよ。うまいよ」「さすがにうまい」と少しお世辞を言いながら「随分牡蠣剥きが早いですねえー」「当たり前だ。世界チャンピオンだからな」「アイルランドの世界大会に出たんですか」「そうさ。そこでチャンピオンになったのさ」「パリのゴンチェさんもチャンピオンですよ」「ゴンチェさんを知っているのか。一緒に壇上に上がったよ」「そうですか。ゴンチェさんはよく知っていますよ」「ふーん。そうか。ゴンチェさんの友達ならこれも食べな」と今度は特別大きなパシフィックオイスターを剥いて持ってきて、これは南オーストラリアのものだと説明してくれる。
この人物はシドニーでは著名である。1991年、93年、99年とアイルランド・ゴールウェイで毎年開催される、世界牡蠣剥きチャンピオン大会に出場し優勝した。この大会の2009年開催状況は第二章でお伝えした通りである。
フイッシュマーケットの大男は言い切る。シドニーからアイルランドは遠いので毎年は参加できないが、参加すれば必ず優勝できると。
オーストラリアのマスコミにもよく出るという。だから、オーストラリアのメディア王で9チャンネルNINEのオーナー、大金持ちのケリー・パーカーの娘の結婚式に呼ばれて、パーティ会場で牡蠣を剥いたこともある。
「そうだ。車の中に世界大会の写真があるから持ってくるよ」と車から戻って写真を見せてくれる。親切である。写真にゴンチェさんも写っている。今度パリに行ったらゴンチェさんに報告しよう。
この有名人物はJIM ANGELAKOS氏である。皆さんもシドニーに行かれたら、フイッシュマーケットに行って会うとよいと思います。出身はギリシャと言っていましたが、とにかく、オーストラリア人は陽気で親切です。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 3
シ ド ニ ー の 町 で
オーストラリア・シドニーに来てビックリしたことはいくつもあるが、その代表は女性の胸が大きく、それを露わにしていることだ。ちょうど夏で、日本と反対だから12月は夏に入ったばかりであるが、日中39℃という猛烈な日差しが照りつけている。しかし、翌日は30℃と変化も激しい。
いずれにしても夏なので人は軽装である。多くの女性はノースリーブで胸前面が開放的な服装である。街中を歩いていても交通通信号よりも、女性に眼が行ってしまうので危険である。当然、事件は多い。若い男がレイプ事件を起こすことがある。特に集団で起こした場合の罰は厳しい。殺人よりも懲役は長いという。一生刑務所の中で過ごすことになるから、眼を奪われてもよいが、決して行動に出てはいけない。当たり前のことであるが、一応ご注意情報としてお伝えしたい。
ブ ッ シ ュ ハ エ
次に驚いたことは、ハエが多いことである。ブッシュハエという。別にアメリカのブッシュ元大統領にあてつけたネーミングでない。また、シドニー郊外に出ると、すぐに雑木、大体はユーカリであり、ユーカリの種類は600以上もあるといわれているが、その林が続いている。それらの林は道路両側にどこまでも広がっていく。最初は珍しいので熱心に見ているが、いつまでも同じ景観が続くので飽きが来て眠くなる。車の制限速度は100キロである。別に急ぐ旅でもないし、オーストラリアまで来て慌てて走ることはないので、制限速度を守ってゆったり牡蠣養殖場へ向った。
この道路サイドに広がる木の集団をブッシュという。その名をとってブッシュハエという。これが車を降りるとすぐに近寄ってくる。牡蠣養殖場で見学している間中、顔から首から両手にハエが来る。気をつけなければならないことは、鼻の中に入ることと、口の中だ。しょっちゅう手で追い払うことになる。しかし、ハエも頑張る。しつこい。口の回りに向かってくるので、シドニーの街中で笑うような大口は開けられない。開けるとハエの絶好突撃口となる。そこで大口はできないので、口はあまり開けないで発音することになる。だから、オーストラリア人の英語は母国のイギリスに比べて発生する口の開きが少ない。口の開け方が少ないので、イギリスとの発音が違うはずであるが、そのような確認は、当然ながらこちらの語学力では全然分からない。しかし、違うはずだ。
牡 蠣 の 見 栄 え も 大 事
さて、話は横道にそれたので、本題の牡蠣に入りたい。シドニーのフイッシュマーケットは波止場にある。海辺である。その桟橋に出ると、もうそこはブッシュハエの世界である。いつも顔あたりで手を振っていないといけない。扇子か団扇を持参するとよいかもしれない。次回はそうしたい。ブッシュハエはフイッシュマーケットの建物内にもいるが、さすがに競りを行う会場内にはいない。競りの真剣なやりとりに遠慮しているのだ。だが、競り会場を出た魚販売のスペースにはいる。牡蠣剥きしているおじさんの所には、当然、ブッシュハエはいる。顔を襲ってくるブッシュハエを手で払いのけて、おじさんの牡蠣剥きを飽きずに見ていると、面白いことに気づいた。牡蠣を開けるには貝柱を切ることはお馴染みのやり方であるが、その貝柱を切った牡蠣を水道で洗う。ということは水道が出しっぱなしになっている、水の流れるところで、つまり、水道の下で牡蠣を剥いているということだ。自動的に牡蠣を洗っている。牡蠣の殻に入っている、海水を落としてしまうということになる。その上、牡蠣を裏返しにして深みがある殻の方に入れる。ということは、牡蠣を剥いたら水道で洗って、それを反対側にして殻に入れなおすということである。どうしてこのようなことをするのか。それを再び、FARMERS ASSOCIATION(漁業組合)の、牡蠣担当アナリストのRACHEL KING女史に聞いてみる。オーストラリアの牡蠣について、いろいろ教えてもらいたいとフイッシュマーケットに、事前に申し入れしておいたら、この赤い髪の若い、なかなかしっかりした女性を紹介してくれたのだ。彼女は、この仕事を三年しているという。フランスにも日本にも行ったことがあるらしい。牡蠣を裏返しにする理由について、女史の答えは明快である。それは「見た目をよくするため」であるという。人によっては不気味に感じる内臓の方を見せないようにするためなのである。分かってみれば簡単なことだが、牡蠣剥きのおじさんの一瞬の裏返し早業は、そのような見栄えということが根拠だったとは知らなかった。
シ ー フ ー ド ・ レ ス ト ラ ン で
既に触れたように、フイッシュマーケットの牡蠣剥きは朝7時から初めて12時に終わり、そこからレストランに届けるのだから、客が食べるのは早くて5時間後となる。22時過ぎてレストランに行く場合は15時間も過ぎていることになる。夜に牡蠣を食べる場合の方が多いのであるから、実際は長時間殻から牡蠣が開けられたまま、それも貝柱が切られているので死んだ状態でいる、ということになる。衛生上問題がないのか。という疑問が素朴に湧いてくる。これに対する答えはレストランから聞いてみよう。シーフードレストラン BLUE ANGELのオーナー、MARCELLO MARCOBELLO氏に会ってみた。
このレストランはもう45年も経営している。イタリア出身で父からの二代目である。ここはロブスターも専門で水槽が12個もある。それも全部大きい。これだけあると海水の入れ替えだけで大変な手間だろう。オーナー氏曰く「ここの水槽の数は世界一だ」と豪語する。そのオーナーが語る牡蠣の衛生管理は「フイッシュマーケットでは毎朝200ダース程度開けている。レストランは当日の予約状況を考えて、朝10~20ダース注文すると午後に届けてくれる。牡蠣養殖業者からフイッシュマーケットへは4℃から10℃で運ばれる。これは法律で決まっている。レストランには12℃ を保って届けてくる。衛生管理法でこの温度は決まっている」また「牡蠣の選定は養殖業者の指名はしないで、フイッシュマーケットの卸元に任せている」という。このBLUE ANGELはシドニーでも有名で一階が100席、二階も100席あるから、シドニーにいかれた方は訪問されている方も多いかもしれない。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 4
牡 蠣 を 食 べ る
ここで食べた牡蠣を写真で紹介したい。
三種類食べてみた。
1.シドニーロックオイスター 小さめ
2.パシフィックオイスター(マガキ) COTTON BAY産(南オーストラリア州)
3. 々 TASMANIA産(タスマニア州)
大皿に盛られた写真の手前がシドニーロックオイスター、右側がCOTTON BAYのパシフィックオイスター(マガキ)、左側がTASMANIAのパシフィックオイスター(マガキ)である。
(ブルーエンジェルスで)
食べた時間は19時であるから、フイッシュマーケットから運んできて、7時に牡蠣剥きした時間から計算すると12時間は経過しているが、新鮮である。味も悪くない。全体の雰囲気とオーナーの説明がうまいのかも知れないが、問題なく味わえる。
それとも牡蠣と味わったワインのおかげか。ワインは白。PENFOLDSペンフォールト リザーブワイン2000年物。南オーストラリア。CHARDONNAYシャドネイ(シャルドネ)フランスのブルゴーニュがふるさと。これはしっかりした味覚である。牡蠣にはシャブリがいいと言われているが、このペンフォールトも絶品である。オーナーも一緒に飲んで、二本空けてしまった。一本はオーナーの奢りだ。
オーナーも酔っ払って、レストランの創業時からの思い出を語りだす。父親との関係、それを思い出して涙する。こちらもその話にホロッとする。加えて母親との愛情と別れた妻との問題。慰謝料でビル一つ取られてもう結婚はこりごりだといいながら、日本人女性を紹介してくれないかという。やはり奥さんが欲しいのだ。まだまだ話は延々と続く。若いときにイタリアでシェフ修行時代のつらさと楽しさを、牡蠣を食べ、ワインを飲み干しながら弾丸のごとく、オーナーの口から飛び出し、とどまるところをしらない。付き合っていると朝になる。楽しい語らいだが、明日も牡蠣の視察だ、これで失礼しよう。
鮮 度 確 認
さて、シーフードレストラン BLUE ANGELで食べ続けた牡蠣の鮮度判断・確認は、自分の身体でするしかなく、その判定は翌朝の身体ですることになる。これは過去の牡蠣食べ歩き経験で得たセオリーである。翌朝のシドニー、お腹は大丈夫で快腸だ。したがって、BLUE ANGELの牡蠣鮮度は問題ないと判断できる。そうだろう、問題だったら45年もシドニーでトップのレストラン経営は続けていないだろう。オーストラリアには、オーストラリアの牡蠣の食べ方があるのだ。現地主義で行けばよいのだと思う。
ホ ー ク ス ベ リ ー へ 向 か う
シドニーから北へ約60kmの、HAWKESBURYホークスベリーのブルックリンBROOKLYNへ向かう。ブルックリンはブリスベーン ウォーター国立公園、クーリングガイ・チェイス国立公園、マラマラ国立公園に囲まれた静かで美しい景観の海辺の町である。家が500軒程度の静かな町。パシフイック・ハイウェイ一号線をワタラパークに沿って走り、ブルックリンを一度走りすごし橋を渡ってUターンし、再び同じ橋をもどって渡り、海側に入っていくと、そこがブルックリンである。道路標識距離ではシドニーから60kmとあるが、実際に走ってみると75km程度の走行距離となり、時間的にも一時間半程度要した。勿論、制限速度以内の安全運転である。今は2005年12月。オーストラリアは夏が始まったばかりであり、日中は30度を超すが、日本のように蒸し暑さがない。乾燥しているからであり、その分紫外線が強いので皮膚ガンが多いという。それなのにスポーツ観戦で、熱狂すると男性はシャツを脱いで、上半身を裸にする癖がある。皮膚ガンの怖さを超える熱狂的スポーツ国なのだろう。
シドニーの2006年元旦が44.2度になったと、日本の新聞に掲載された。元旦としては観測史上最高であり、年間でも史上二番目だという。猛暑と空気の乾燥のため、シドニーがあるニューサウスウェールズ州の一部で森林火災が発生し、これまでに二万五千ヘクタールを焼失、住民の避難騒ぎも起きたとも掲載されている。日本は厳しい寒波と大雪であるように、世界各地も年明け早々、異常な天候や災害に見舞われているようだ。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 5
牡 蠣 の 調 理
オーストラリア人は牡蠣が好きだ。しかし、牡蠣も好きだが海老はもっと好きらしい。更にもっと好きなのは肉で、ビール片手にバーベキューが日常の楽しみとして行われる。人柄も明るくとっつきやすいのがオーストラリア人である。魚は一般的に油で揚げる料理である。購入場所はスーパーかフイッシュマーケット。既にご紹介したようにフイッシュマーケットには一般人も入れる。牡蠣は生で食べるのが多いというが、調理しても食べる。その方法は牡蠣にベーコンとかクリームチーズをのせてオーブンで焼く、というのであるから、十分にカロリーをとることになる。20年位前に大腸ガンが世界で多いほうの国だったので、少ない国の日本を調べたら、魚介類を多くとっているというデータに気づき、厚生省から魚を食べるようにし、肉と肉を焼いた後の焦げに注意するよう指示が出された。
世界長寿ベストテンに入っている。2003年WHOデータでは男性が第三位77.9歳、女性は第五位83歳である。因みにこの年の日本は男性78.4歳、女性85.3歳でいずれも一位。特にホークスベリーあたりは、オーストラリアでも高齢者が多いことで有名。この地区は川が多く、家が少なく、病院は近くにない。そこで地域医療制度が充実している。巡回診察などである。
オ イ ス タ ー フ ァ ー マ ー
このブルックリンに観光客が来る目的の主なものはクルーズである。船に乗って魚介類を食べて海を走る。景観がすばらしいのと、新鮮な魚介類、つまり、牡蠣と海老が大人気である。さて、牡蠣養殖業者はオイスターファーマーOYSTER FARMERSと呼ばれる。そのオイスターファーマーのロバーツさんに会いに行く。ロバーツさんは四代目。このブルックリンでは120年前から牡蠣養殖が始まっているが、自分のところは70年前から始めたという。
ロバーツさんは早速に艀の先に案内してくれる。海と森とのマッチングが美しい。ただし、ブッシュバエが頻りに襲ってくる。顔にも首にも手にも。下手をすると口にも入ってくる。ロバーツさんは半そでで半ズボン姿。左腕の肘に擦り傷と思われる傷がある。そこに何か黒い塊が出来ている。傷口の瘡蓋と思って注意してみたらブッシュバエが三匹止まっているのだ。ロバーツさんは全然気にしなく、それを追い払おうともしないが、こちらは気になる。取材を続けながらその塊につい眼が行ってしまう。
潮の満ち干
牡蠣養殖であるから、その場所を見ようと思っていったのだが、筏は見当たらない。勇んで艀に向ったのに、どこを見渡しても牡蠣養殖の筏が見当たらない。だが、牡蠣養殖業者のロバーツさんは熱心説明してくれる。ロバーツさんに名刺を貰ったのでみてみると、ロバーツさんは企業化している。社名はMOXHAM P/Lとある。社名の意味は分からない。意味を聞く暇もなく、ロバーツさんは熱心に語り続ける。フランス人もよくしゃべるが、オーストラリア人も負けないほどよくしゃべると思う。牡蠣養殖の方法を説明してくれるのであるが、どうも実感がわかない。それもそうだろう。海に牡蠣養殖の影も形もないのだから。とうとう我慢しきれなくなって、ロバーツさんの活発な語りの途中であったが「筏はどこにあるのですか」と聞いてみる。答えは「あそこだ」と指を指す。指した先は海が広がっているばかりである。この指差した写真が以下である。どこにも筏は見当たらない。
潮が満ちているので、筏は見えない。困ったというと、小屋からパネルを外に運び出して写真に撮ってあるもので牡蠣養殖の方法を説明してくれた。また、このパネル写真を贈呈してくれたので助かった。とにかく海の中に埋没しているものは撮影できない。潮の満ち干の高さは2メートル程度。フランスのブルターニュの8メートルに比べると随分低いが、それでも筏は見えなくなるのである。
牡 蠣 養 殖 法
牡蠣養殖法は、まず牡蠣が産卵するときに2メートルくらいの棒を入れて、その棒に卵を付着させる。牡蠣は何かに付着したい性質を持っているので、棒に付着する。この棒のことはなんと言うのか、名前を確認したが、ステック・棒というだけで特別の名前はない。稚貝育成棒というべきであろう。この棒についた卵から稚貝になり、形状がはっきりした段階で、ラックに移す。ラックは幅1メートル、長さ2メートル程度のもので、回りが木枠で下側の一面に網が敷いてある。棒もラックも最近はプラスチック製が多くなっている。ここに牡蠣を載せて海で育てるのである。二年半から三年半掛かって市場に出せる大きさの牡蠣になる。これはシドニーロックオイスターSYDNEY ROCK OYSTERの場合である。パシフイックオイスターは一年で大きくなる。このパシフイックオイスターはマガキのことである。
これがオーストラリアの牡蠣養殖の方法である。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 6
タ ス マ ニ ア 島
前回までが2005年12月に訪れたシドニーでの牡蠣養殖事情である。これからは2009年10月に訪問したタスマニア島についてお伝えしたい。タスマニアのホバートに行くため、成田空港からシドニーのキングスフォード・スミス国際空港で乗り換えするのであるが、パックはいったん全部オーストラリア国内への持ち込みとしてチェックを受ける。
特に食べ物は厳しいので、申告書の食べ物所有欄に印をつけ、それを税関に渡し「梅干し・プラム」と伝えると、バックをレントゲン装置に入れるが、無事通過する。梅干しは朝のお茶飲む際の必需品だから、どこの国へ行く時も持参している。次に、ターミナル1から国内線の3に乗り換えるのが大変だった。カンタス航空のカウンターが大混雑である。手続きカウンター窓口は5か所ほどあるが、人が大勢居すぎる。ようやく終えてバスでターミナル3へ向かい、ようやくホバート行きに乗るが、機内はほぼ満員で、二時間で着く。
到着したホバート空港、ここでも食べ物検査官が立っていて、眼を光らせている。厳しいのだ。さて、バックを取り、タクシーで市内ホテルまでの20分17キロ、運転手の物腰は柔らかく、途中の風景、山も草原も家並みもすべて穏やかで好感が持てる。今年は雨が多かったせいで、牧草地の草がとてもきれいだと地元の人がいう。
タスマニア島の面積は68331k㎡。北海道の80%。人口約49万人。州都はホバートで人口20万人。タスマニアは全島の37%が国立公園や自然保護区になっていて、全土は豊かな多雨林の森に覆われている。その大部分は世界遺産。リンゴもでき、そば粉もでき、日本へ輸出している。タスマニア島の気候は夏でも30度超さず、冬でもマイナスになることは稀で平均8度くらい。南極に一番近い町で台風・地震なしで、化学工場などは一切ない。快適な島である。
この島にくる外国人観光客は20万人、日本人は7000人。ただし、国内の観光客もいるので全体では100万人である。タスマニア島の発見はオランダ人のアベル・タスマンで、到着した入り江に行き記念碑を読むと1642年と書かれている。因みに、ガイドブック「地球の歩き方」では1641年となっている。
タ ス マ ニ ア 州 第 一 次 産 業 省 水 産 局
ここで二人の担当官に概況説明を受けた。二人とも坊主頭というより五分刈り。スポーツマン的な体格で、言葉に率直性が感じられる。タスマニア島の牡蠣は100%人口採描である。品種はマガキ。歴史的には、白人の入植当時の1803年は野生牡蠣を採って、これを大陸に輸出していたが、徐々になくなってきたので、1900年代に養殖をトライしたが失敗した。戦後の1947年、初めて外国産牡蠣として日本からマガキを輸入し、育成試験してみたが、これもなかなかうまくいかなかった。
1960年代に再び養殖に挑戦し、政府と民間のジョイントベンチャーで人工孵化技術を研究し、これがうまく進んで、牡蠣養殖が定着した。今では、三倍体牡蠣も養殖している。
タスマニア全体の牡蠣生産量は350万ダース。4200万個。ここではダースで計算する習慣である。この需要は国内マーケット中心である。タスマニア牡蠣の競合先はニューサウスウェールス州地区であり、シドニーロックオイスターだ。養殖方法は棚式と垂下式。養殖する場所は国からリースする。海の権限は国。現在120か所をリース許可している。一つのエリアで5から25ヘクタール。業者は80から85社くらい。最初の牡蠣養殖はホバートに近いPitt Waterで行われ、現在では島内の9地域で行われている。オーストラリア全体の牡蠣生産量は、大体、サウスオーストラリア州とニューサウスウェールス州とタスマニア島で三分の一ずつである。
行政指導は、1995年に策定した養殖条件法に基づいて行っている。この法案を策定したのは、牡蠣養殖が広がって、業者同士の争いが増え、サーモンの養殖地と牡蠣とで海の取り合いになったので、この対立をコントロールするためであり、基本方針は公平に海域をリースする仕組みつくりと、環境を守る必要条件を明記したものである。タスマニア島の大きな地図を持ってきて説明してくれる。養殖海域ゾーンの中で全部の面積を使用するところと、一部分を使用して養殖するところに分かれている。このゾーン決定は、まず、最初に環境条件を考慮し、次に、地元の住民の意見、他産業とかレクレーション関係の意見を総合し、計画書をつくり公報に発表して意見調整し、民間の有識者が参加した委員会が決めている。決定条件は資産、技術力、販路などであるが、決定後は30年間リース権利を持て、15年時に見直しをしている。このリース方式、個人に与えられ、個人だから権利を売れることになるので、リース受けた海域を大事にすることになるという。つまり、自分の海だから大事に養殖するのだ。
この方式に対し、日本の場合は、漁業組合が権利を持っていて、組合員に抽選などで毎年海域を配分する方式なので、あまり海を大事にしない欠点があるという専門家の見解もある。さて、リース権限とライセンスは異なる。ライセンスは別途取得。事業展開内容検討して決める。ライセンスフィーがかかる。リース代金は場所によってさまざま。1haが100ドルからこの100倍まである。前述したようにリース権限は譲渡できる。タスマニアでは牡蠣は若い人よりは年配者、お金持ちのアイテムで、ぜいたく品に入るという。また、タスマニア牡蠣は品質がよく、高級品で、少量のよい牡蠣をつくることがモットーであると強調する。養殖業者も高級品をつくっているところで、レストランと結びついているところが成功している。
最後に名刺のデザインを興味深く見ていると、担当官が次のように説明してくれた。「上下の波線は海を表し、縦線はグリーンと森を表し、この二つに囲まれた中に野生動物タスマニアンデビルを描き、その下にスローガン『Explore the Possibilities』、直訳すると『可能性を探検する』だが、一言で述べれば『来てみたらわかる。来なくちゃ分からない』ということだ」と。
この説明に納得。余計な宣伝はしなく、自然環境を守っていることに絶対の自信を持っているので、訪れた人々がタスマニアの事実報告をそれぞれしてくれ、それが宣伝になる。つまり、地球環境問題が問われている今の世界の時流、それに完全に合致しているという自信に溢れている発言である。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 7
牡 蠣 養 殖 場
ホバートからビチェノBichenoへA3号線道路を車で走る。途中の景色は日本人になじむ穏やかな景観。両側に広がる樹木はユーカリ、成長が早く、床材などに使われる。高さ101mものユーカリがギネスブックとのことだが、90mくらいはたくさんあるいわれている。
(ホバート郊外景観)
ゴルフ場のあるあたりの、砂浜がきれいなところで一度休憩して、また、走って行くと、大きな車が道端にあり、そこからまだ若い大男が手を振り、こちらについて来いという仕草をする。ついて行く道は舗装されていなく、デコボコ山道で、両側は草原と樹木が続き、かなり走って着いたところが丘の上。ここで降りると養殖場が一望できる。入江となっている海側から入り込むところは、養殖場の手前で急に狭くなっている。陸地側からは上流70kmに発する川から水が流れ込んでいる。海と川に挟まれた静かで穏やかな一角であり、今まで世界中で見た牡蠣養殖場では、一番理想的な環境だと感じる。
(リトルスワンボート)
ここは、リトル・スワンポート LITTLE SWANPORTである。GREAT OYSTER BAYに面しているが、この名前にもなるほどと思う。ここは棚方式で牡蠣を養殖している。ここの始まりは元National Aquaculture Councilのタスマニア代表を務めた父で、今は息子のハイデンHayden Dyke氏が継いでいる。社名はOYSTER BAY OYSTERS PTY Ltd。従業員は三人。広さは27ha、年間12万ダース・144万個生産。少ないと感じる。タスマニア全体の約3.5%になる。ここでも当初は、ネイティブ牡蠣を採っていたが、だんだん採れなくなり、病気もあって、マガキに変えた。1983年創業であるから、まだ26年しか経過していない海である。日本での養殖は、天文年間(1532年~1555年)に広島湾で行われ始めたのであるから、既に500年近い年月を経ているので、全く比較にならない若さである。
早速、船を出してくれ、棚のところに行く。この海域には二つの養殖会社あり。海の真ん中にある通路で区切られている。海水の状況は、三か所に検査機を配置し、塩分濃度、温度、酸素の三条件を五分ごとに、事務所のパソコンにワイヤレス連絡している。これは州政府が定めた1995年の基準によるもの。さて、養殖の成長順に船を動かしてくれる。タスマニアの天候は猫の目で、晴れていたかと思うと土砂降り雨が降り、雨が降ったかと思うと晴れる。だから、今晴れていても雨が降る可能性があるので、傘をもって船に乗る。
牡蠣養殖の育て方は、
① 6mmサイズの稚貝を二カ月ごとに25万個仕入れる。これを10トレイに入れる。一トレイ25000個。海水に入れておき、10mmになると違う場所へ移動。小さいものは又海に入れる。稚貝の死亡率は10%程度と少ない。一般的には30%程度あるという。
② 次にかごに入れる。4か月で4cmになるが、大きさがバラつくこともあり、成長具合で選別し、海水に長く入れるものと、そうでないものとに分ける。今年は雨が多かったので、成長具合のバラつきが大きかった。
③ 次のかごは8か月入れる。一かごに90個から100個。6から7cmになる。かごで殻の形作りする。ここの牡蠣は形がよいという評判である。
④ 次に出荷できる状態の牡蠣棚に行く。出荷前の調整しているところ。ハイデン氏が海に入って牡蠣剥いてくれ、それを四個食べたが、身が締まって美味い。絶品だ。
⑤ さらにビックな牡蠣棚に向かう。大きい。日本と同じくらい。ここでも二個食べる。美味い。最高だ。
⑥ 結局、出荷までに14か月から26カ月程度要する。
⑦ 出荷するに当たっては、船で牡蠣を運んできて、作業場に船を車で引っ張り上陸させ、大きさを整理し大きな袋に入れ、その上に名札を張る。以前は麻袋であったが、今は白いビニール袋使用している。
⑧ なお、三倍体も扱っているが、夏場用として買うのみ。
さて、ハイデン氏に牡蠣養殖の理念について伺ったところ、「量より質であり、持続的安定成長」であるとすぐに答える。すべてはクォリティにつきるというのだ。さすがにタスマニアだ。感心するし、タスマニア州第一次産業省水産局が述べた「タスマニア牡蠣は品質がよく、高級品で、少量のよい牡蠣をつくることがモットー」と一致している。州政府と現場の実態が同一である。さすがであると思う。
(ハイデン氏が牡蠣を剥く)
さらに、ハイデン氏は強調する。この理念は父の進めてきた経営が存在している。それは、最初は少ない小さい規模でスタートし、環境保護を最も重視し、大事に徐々に大きくしてきたこと、それを自分も踏襲しているのだという。ここでも環境重視姿勢が貫かれている。
なお、タスマニアの牡蠣の大きさ基準は次のように分かれている。
① バフェットBUFFETビュッフェの大きさ、これは6から7.5cm。
② 中はスタンダード7.5cmから8cm。
③ 大はラージで8cmから10cm。
④ 特大はジャンボ10cm以上。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 8
牡 蠣 料 理
タスマニアの牡蠣は、勿論、一番多い食べ方は生である。だが、タスマニア独自の牡蠣料理もある。代表的な牡蠣料理は、キルパトリックKILPATRICKで、これがタスマニアの伝統牡蠣料理である。牡蠣にベーコン乗せてウスターソースをかけたものであるが、ケチャップやパイナップルを乗せ、タバスコ・ミリンをかけるなど、レストランのシェフで異なる料理法がある。そこで、ホバート空港近くにあるバリラ ベイ BARILLA BAYレストランで、昼食に牡蠣料理を食べてみた。
KILPATRICK12個と、TAMANIAN BRIE6個これはチーズを乗せたもの、それとLOUISANA6個。これに野菜スープを飲むと三人ともお腹いっぱいである。
(カキフライ)
夜はカキフライがあるというので日本食寿司店の「ORIZURU」に行く。タスマニアでもっとも有名なカメロン オブ タスマニア社(CAMERON OF TASMANIA)から仕入れしている。カメロン オブ タスマニア社も訪問したが、ここについて書きだすと、タスマニアのページが多くなり過ぎて、他の国とのバランスが取れないので、残念ながら割愛したいが、ここから入った牡蠣は、殻がきれいな形の上、見事に輝き、黄金色になっているものもある。これは突然に養殖している時に発生するらしい。「ORIZURU」のマスターは羽田野さん。二代目である。早速、カキフライを食べてみる。これはぜいたくだと感じる。生で食べる牡蠣をフライにしたもので、牡蠣が殻に一個ずつ入っていて厚みがある。
日本のカキフライは、多分、一個10g程度だろう。ここは13g以上ある。大きい。味もよい。カキフライにタスマニアワインが合うかどうか、この店が推薦するハウスワイン白、シャブリを飲んでみる。日本人ウェイトレスが持参したハウスワイン、見ていると何とひねって開けるではないか。驚く。コルク式でないのである。一本ボトル26ドルと安いので、コルク式でないのかと思う。ところが、これは間違いであった。オーストラリア産のワインはすべてコルク式でない。スクリュー方式である。この背景に、コルクの原木が環境汚染され、ワインのような長期間保存する飲み物には適しない、ということが理由だという。また、別の見解として、コルク材の資源が減っていて、白ワインのような早めに飲むものはコルクでなくてもよいし、途中まで飲んだ時、コルクの場合締められないという利点もある。だから、スクリュー方式が、安ものだという断定はできないという。
次に、酢カキも食べる。これはポン酢とおろしと辛味で生牡蠣を食べるのだが、これも結構うまい。タスマニアの牡蠣だからだろうと納得する。
白ワインといえば、シドニーの海辺レストランNic‘sで、シドニーロックオイスターを生で食べながら飲んだ「マーガレット・リバー Margaret River」は絶品だった。牡蠣に合う。これもスクリュー方式であった。
オ ー ス ト ラ リ ア ~ そ の 9
ア ボ リ ジ ニ ー の 遺 跡
最後にリトル・スワンポートの海から陸に上がって、目の前を見ると何か遺跡らしきものがある。ハイデン氏に聞くと、これはアボリジニーの遺跡だという。それも牡蠣を食べた貝殻遺跡だというではないか。
(アボジリニー貝塚遺跡)
日本にも中里貝塚(なかざとかいづか)がある。東京都北区上中里にある貝塚で、国の史跡に指定されている。縄文時代の「水産加工場」と大々的に報道されたが、貝塚は奥東京湾西部の海岸線に沿っていることが明らかになり、ムラの一角にできた貝塚ではなく、浜にできた貝塚であった。その規模は幅約40メートル、長さ1キロメートルにも及び、牡蠣(マガキ)や蛤が大半を占め、春先のカキと初夏のハマグリが交互に貝層を形成し、高さ約4.5メートルにもおよんで堆積している。古の人々はいずれも牡蠣を食べて暮らしていたのである。ここタスマニアのリトル・スワンポートの海でも同様である。これはアボリジニーが牡蠣を食べた牡蠣殻の遺跡跡であり、その後、入植した白人たちが、アボリジニーの食べた牡蠣殻を焼いて石灰をつくり漆喰にした跡の、煉瓦の崩れた建物、焼却炉がある。
オーストラリアの先住民アボリジニーは、白人たちが追い払い、中には絶滅させたところもあるが、アボリジニーの歴史を少し振り返ってみたい。まず、オーストラリア本土に最初のアボリジニが北方より移ってきたのは、おおよそ4万年前で、それが南部のビクトリアの付近まで移ってきたのが3万年前、そして当時 地続きであったタスマニアまで下ってきたのが2万年前、12000年前ぐらいにタスマニアが島として別れたので、その後本土のアボリジニーとは異なった独自文化を構成した。オーストラリア大陸は、14000年前ぐらいに氷河期が訪れた為にアボリジニーは一時衰退し、その後6000年前ぐらいに、現在の海水面程度に安定したので、その時から再びアボリジニーは復活し、さらに、4000年前ぐらいに再び衰退し、またもや2500年前ぐらいに再び復活して、最後のアボリジニーとしての生活文化を作っていったといわれている。白人が最初の入植を行なう以前(18世紀後半以前)のタスマニアアボリジニーは、当時全体で3000人から4000人くらいで、これが250名から700 名の9つの部族に分かれて異なったエリアで生活をしていた。ただし、それぞれの部族は多少季節的な生活場所の移動を行なっていた。
リトル・スワンポートの貝塚は、このうちの部族のひとつOyster Bay Tribeだった。この部族は、タスマニアの東海岸一帯を生活の拠点として、主として海岸線に住み着いていたが、こういった海岸線に住む部族の中心的な食料は貝類とオットセイの肉だったようで、魚はほとんで食べていなく、夏の時期は山間部に移動しカンガルーなどを獲っていた。魚を食べなかった理由は、より容易にカキ、アワビ、ムール貝、イセエビなどが沿岸部で収穫できたからであろうと推測されている。この他に、貝塚はフレシネ半島部分でも多数見られるが、その中でもリトル・スワンポートの貝塚は、規模的にかなり大きいもので、年代的には相当古い時代から形成されたと推測されるが、はっきりとその年代をしめす資料はない。だが、上記のような歴史から推測すると1000年以上前から形成されたと思われる。
タスマニアアボリジニーの遺跡を見て、ここには太古から牡蠣が生息していたことが証明された。また、その謂れを残すために、この地がGREAT OYSTER BAYになっているのだろうし、ここで食べた牡蠣が今まで一番美味いと感じた。
いずれにしてもタスマニアは素晴らしい環境島である。そのことを「タスマニア」(吉岡啓子著)が次のように表現してる。「世界で一番空気と水のきれいな島。世界一ピュアな風に包まれ、欝蒼と生い茂った温帯雨林、太古の姿を残す動植物。歴史の漂う素朴な町、そこはオーストラリア最南端に浮かぶ島タスマニア。心の赴くまま静かに流れる時を過ごしませんか」機会をつくって再び訪ねたいタスマニア島であった。
(オーストラリア編 おわり)