近世編

お夏、清十郎物語

 室津の古く狭い道端に「清十郎生家跡」の石碑が立っている。室津の清十郎を有名にしたのは、井原西鶴の『好色五人女』(貞享3年、1686)である。

「清十郎生家跡」石碑


 室津きっての造り酒屋、和泉屋の御曹司清十郎は、遊女皆川と深い馴染みになったが、父に仲を引き裂かれ、二人は心中するが清十郎は死をのがれる。
 室津にいられなくなった清十郎は、姫路の米問屋但馬屋九右衛門のもとで手代となる。この九右衛門の妹お夏が清十郎へ想いをつのらせ、店が催した春の野遊びで二人は結ばれる。主人の妹との逢瀬は密通であり、発覚すれば重罰となる。
 二人は大坂へ逃げようと船に乗ったところを捕らえられるが、ちょうどその時、但馬屋で金子700両が紛失、嫌疑が清十郎にかけられ、身におぼえはなかったが、ついに処刑される。25歳であった。後に金子は店の中で見つかったが、もう遅かった。
 清十郎の死を知ったお夏は狂乱。
「清十郎殺さばお夏も殺せ。生きておもいをさしょりも」と唄われる。
 清十郎を弔う「清十郎塚」の前で、お夏は自殺を図るが、押しとどめられ仏門に入る。
「十六の夏衣、けふより墨染めにして…」とお夏は出家し「中将姫の再来」といわれ、但馬屋もねんごろな仏事供養を執り行い、清十郎を弔ったというストーリーである。
 これは西鶴が、読者の共感を意識して、このような悲劇につくったのであった。
 この物語を受け、近松門左衛門は「お夏清十郎50年忌歌念仏」を、宝永4年(1707)大坂で人形浄瑠璃の舞台にし、大人気を得た。
 以後、この物語は様々な変容を遂げながら明治、大正、昭和を経て現在に至っているのである。

宮本武蔵

 宮本武蔵の生誕地についてはさまざまな説がいわれているが、ある歴史学者は「宮本武蔵で確実なことは、武蔵自身が書いた『五輪書』で言っていることだけである」と語っている。
 この見解に基づけば『五輪書』序文に「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原の玄信」とあるように、武蔵自身が播磨生まれと言っているわけで疑問の余地がなく、その後美作の宮本村へ養子に行ったことになる。
 13歳で有馬喜兵衛との戦いで勝利をおさめた後、京都での吉岡一門との決闘、奈良で宝蔵院流槍術と、伊賀では鎖鎌の宍戸某と、江戸では棒術の夢想権之助と戦い、ことごとく勝利し、慶長17年の佐々木小次郎との戦いを制し、二刀流の武蔵は剣豪として名を高める。

宮本武蔵肖像・晩年

 その後、大坂冬・夏の陣にも加担し、姫路藩本多家の剣道指南となるが、養子伊織が明石藩小笠原忠真に仕え、小倉に転封とともに移住。武蔵はここで島原の乱鎮圧に協力し、前小倉藩主で熊本に移っていた細川忠利の知遇を受け、晩年は熊本城下で過ごした。

忠臣蔵

 元禄14年(1701)、江戸城松の廊下において、「この間の遺恨覚えたるか」と言いざま、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、名門の高家・吉良上野介義央に切りつけた。吉良は眉間と背中に傷を負った。
 殿中刃傷に対する幕府の対応は「喧嘩両成敗」でなく、浅野は即刻切腹、吉良はお構いなし。この「片手落ちの処断」に対し、赤穂浪士が決起、筆頭家老大石内蔵助がリーダーとなった。
 大石は浅野家再興を願うが、かなわないとなると、行動目標を「吉良の首」に定めた。殿中刃傷から1年9ヶ月の元禄15年12月14日、吉良邸へ討ち入り、吉良の首をあげる。討ち入り後の処置は幕府が慎重に進め、元禄16年2月、全員切腹となった。

忠臣蔵討ち入り図 歌川国芳作
 この討ち入りから46年後の寛延元年(1748)、大坂・竹本座で赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が上演され、一大人気となり、続いて翌寛延2年には江戸で歌舞伎となって上演、熱狂的な忠臣蔵ブームが発生し、以後、今日まで忠臣蔵は日本を代表する物語であり、日本人の精神を物語るものとして語り続けられている。


中世編

播磨の国の悪党ども

 悪党の代表は、寺田法念(てらだほうねん)と垂水繁昌(たるみしげまさ)であり、悪党が発生したのは鎌倉時代の中頃である。

 「国々悪党蜂起セ令メ…早ク警護ヲ加ウル可キナリ」という有名な「御成敗式目」追加法令が出されたのは正嘉2年(1258)で、この頃は全国的に悪党蜂起が眼にあまり、この悪党によって荘園体制が崩壊の危機に直面したため、本格的な取り締まりに乗り出した。
 この悪党とは権力側が名づけたものであって、荘園領主—幕府体制という年貢集税システムに対して異を唱え、地元にも還元すべきという主張した者であるので、在地の荘園関係者の立場に立てば、旧弊打破という政治改革行動であった。

 悪党の代表的人物である寺田法念の舞台は矢野荘である。矢野荘とは、現在の相生駅から播磨科学公園都市へ向かう三濃山トンネル、その南に伸びる谷間にあって、千草川の支流である矢野川の流域で、土壌は豊かであり、ここに農地が開発されたのは6世紀末から7世紀のころ、渡来人の秦河勝(はたのかわかつ・生没年未詳)一族によるものであった。

 その後、荘園制度によって京都の名門公家、東寺、南禅寺などと荘園領主は代わったが、これら荘園管理者である荘官の一人が寺田法念であった。本名は範家、法名が法念。
法念は渡来人の秦氏の子孫といわれ、1310年代から約20年間、荘園領主と対立抗争を続けて、東寺から「国中名誉の悪党」(世間では知らぬものなき悪党)と名指しされたほどだった。

 もう一人の悪党が垂水繁昌で、小野市の国宝浄土寺を中心とした「大部荘」が舞台であった。ここは、加古川と支流の万勝寺川・東条川によってつくられた河岸段丘が広がって、古来から米作が行われていて、本格荘園とされたのは12世末紀である。
 荘園は東大寺領として播磨別所と称され、その中核施設として浄土寺が建立されたが、この荘園で運搬業務を担当した「雑掌(ざっしょう)」と呼ばれる身分の者があり、その中で垂水繁昌は「雑掌中の雑掌」といわれ、数百人の部下勢力を持つほどの強大な勢力となり、永仁2年(1294)ころから東大寺側と衝突していた。


赤松円心の登場

 このような時代に登場したのが、赤松則村(あかまつのりむら・建治3年(1277年)〜正平5年(1350))で、南北朝時代の武将である。法名は円心。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。父は赤松茂則。子に赤松範資、赤松貞範、赤松則祐、赤松氏範、赤松氏康らがいる。

 円心が悪党行動した史料はなく、むしろ権力側に食い込み、三男の赤松則祐を護良親王の側近とさせ、長男赤松範資と二男貞範を摂津の長洲御厨(現尼崎市)に派遣し、中央政治・経済動向を取り入れ分析し、時代の流れを読み解いた。
 結果として、足利尊氏と呼応し、鎌倉幕府を倒した(建武新政)。ところが後醍醐天皇を取り巻く政権中枢と確執、追放された足利尊氏とともに下野。
 足利尊氏は態勢を立て直し、楠正成軍を破り、念願の足利幕府を開く。円心なくして足利幕府-室町幕府の成立はなかったであろう。その功績で、政務全般を司る「三官領」には細川、斯波、畠山氏、司法と軍事を司る「四職」には山名、京極、一色、そして赤松氏が任命された。


黒田孝高は播磨国出身

 黒田孝高(くろだよしたか・天文15年〜慶長9年、1546〜1604)、通称は官兵衛。カトリックの洗礼名はシメオン、入道してからは如水(じょすい)といい、豊前中津城主、子息は黒田長政で関ヶ原の戦い後、筑前福岡52万石大名となる。
 この黒田孝高は播磨国と大きく関係がある。孝高の祖父は重孝、父は黒田職隆(もとたか)、この頃の播磨の国は、御着城(ごちゃくじょう・姫路市御国野町)の小寺氏、三木城(三木市)の別所氏が勢力を持っていた。
 重孝は最初、赤松一族の龍野城赤松政秀に仕えるが、すぐに見切りをつけ姫路に出て、小寺藤兵衛に仕える。小寺氏から重孝父子は姫路城を居城として与えられ、職隆に孝高が生まれる。
 当時は戦国時代、織田家が全国制覇を目指して、中国の毛利家を攻撃すべく、播磨の国に入ってきた。孝高は織田につくことを主張、秀吉を迎え、自らの居城である姫路城を秀吉に譲ってしまう。翌天正6年の第二次中国攻めの時、御着の小寺氏は突如反乱、毛利側に着く。これによって小寺家は滅亡する。

如水居士画像・崇福寺蔵

小寺家を離れた孝高は、秀吉のかけがえない軍師となり、備中高松城の水攻め作戦を献策、織田信長が本能寺の変に倒れた際の、明智光秀との跡目戦いでは智謀の限りをつくし、秀吉の天下取りの最大協力者となり、秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは、子の長政は徳川家康側につき、筑前福岡大名として黒田家の名を遺した。


古代編

播磨灘の地形

岡山空港に飛行機が着陸する際に見られる地上景観は丘が多く、その先に瀬戸内海の島々が浮かんでいる。
 だが、その島々も青い海がなければ丘のように見える。ここはもともと山並みが連なる大規模な山岳地であったところに、海水が浸食し、残った山の頂が丘として残ったのではないかと思わせる景観なのだ。
 実は、この推測は正しい。
 今から1万数1000年前、縄文時代に入る前の旧石器時代の末期、このときはまだ瀬戸内海は姿を現していなかった。
 海岸線は、今より100mも低いところにあり、大阪湾も、紀伊水道も、播磨灘もなかった。現在の近畿、中国、四国地域は、隠岐の島を含んで一体とした陸地を構成していたのである。淡路島、小豆島も、家島も、単なる山並みであった。
 時代が下がって、縄文時代に入った1万3000年前あたり、温暖化が進み、地球規模での海面上昇、いわゆる「縄文海進」が約6000年前ごろまで続き、このため海岸線は100mも上昇し、大平原は一面海と化した。播磨灘はこうして誕生した。

卑弥呼と関係する

弥生時代の海岸線には、各地に稲作の痕跡が遺されている。
 弥生時代になって定住人口が増えたことの証明であるが、地域が形成されると、やがて対立抗争が始まり、『魏志倭人伝』にある「倭国大乱」の時代となった。2世紀後半から3世紀にかけてのことである。
 この大乱に登場したのが「卑弥呼」である。
「倭国乱れ…すなわち一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす…」と『魏志倭人伝』が伝える内容は、日本に「クニ」が生まれたことを示している。
 この卑弥呼共立に播磨の勢力がかかわっていたこと、それを証明する存在が、たつの市御津町(みつまち)の梅の名所「綾部山梅林」南東面の古墳から現れた。
 この古墳は「綾部山39号墳」と名づけられたように、綾部山の中で39番目、平成14年(2002)1月に発見された遺跡である。もともと、綾部山古墳群は5世紀(中期)〜7世紀(終末期)にかけての古墳群といわれており、39号もそのように考えて本発掘調査に入ったところ、とんでもない間違いで、もっと以前の3世紀代のものと判明した。
 立地は、瀬戸内海を眺望する海岸沿い小高い尾根上(標高27m)で、ここから大阪・淡路島・徳島県・香川県・岡山県の牛窓(うしまど)が見通せ、瀬戸内の海上交通を強く意識してこの場所に造られたことが推測される。
 また、墳墓の想像図から推定できるように「竪穴式石榔(たてあなしきせっかく)」を石で囲む遺構を「石囲い」または「石塁壁(せきるいへき)」というが、これは四国の阿讃地方(阿波・讃岐)で発達したものであることから、阿波・讃岐と播磨は関係があったと考えられている(2003年3月22日、御津町教育委員会説明資料)。

 さらに大事なことは、「綾部山39号墳」が近年、邪馬台国の首都ともいわれはじめた奈良・纒向(まきむく)にある「ホケノ山古墳」に非常によく似ていて、築造年代も卑弥呼の死(248年頃)の少し前、3世紀前半と推定できることである。
 また、「ホケノ山古墳」の被葬者が、卑弥呼の側近と目される高官でないかといわれており、これが「綾部山39号墳」と多くの類似性を持つということは、卑弥呼側近の出身地が、阿波、讃岐、播磨のいずれかである可能性が高いのだ。
 いずれにしても、日本古代史ロマンに燦然と輝く卑弥呼と播磨灘の御津町とが、何らかの関わり合いがあると想像されることは素晴らしい。

播磨国の謂れ

 播磨の海辺は神功皇后(じんぐうこうごう)とゆかりが深い。神功皇后は日本神話の中で、女性として傑出した人気を誇っている。
 201年から269年まで摂政として政事を執りおこなった神功皇后は、夫である第14代仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵、新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという三韓征伐の神話で有名である。
 この神功皇后が、福泊(姫路市東部)の入江で風待ちのため避難したが、入港するとたちまち雲が切れて青い空がのぞいた。
「おお、晴れ間なり」
と神功皇后が叫んだ。これが「播磨」国の名になったと『播磨鏡』が伝えている。
 また、播磨は、もとは「針間」と書かれていた。『古事記』に「於針間氷河之前」「針間為道口」とある。意味は、天皇の息子が針間氷河(加古川)の岬で神を祀り、針間を山陽道の入り口として吉備(岡山県)を平定したというのである。
 なお、『皇年代略記』の垂仁天皇(すじんてんのう)の条に「此時造播磨」とあり、他の文脈にも出てくるから、すでに垂仁天皇の時代には、この地が播磨と呼ばれていたと思われる。

『播磨国風土記』が現存する

 都が奈良の平城京に還されて3年目の和銅6年(713)、朝廷は諸国、当時の62の国と3つの島に通達を出し、それぞれの国に次の5項目について報告を求めた。

 1、郡郷の地名に好字をつけること。
 2、郡内の産物の品目を録すること。
 3、土地の肥沃の状態。
 4、山川原野の名称の由来。
 5、古老旧聞の伝承。

 その目的は、朝廷が全国支配の強化を狙って、諸国の実情を知ろうと、地勢報告書を求めたもので、ここに各国の風土記が誕生したのである。
 そこで国の数だけ風土記があったはずだが、現存するのは播磨、出雲、常陸、豊後、肥前の5カ国だけである。
 また、遺された『播磨国風土記』であるが、最初、朝廷に差し出されたものは失われ、平安末期に書き写されたものが、京都の公家三条西家にあることが江戸時代末期にわかり、現在は、国宝として天理大学図書館に保管されている。
 ただし、冒頭部分の明石の郡がすり切れて失われ、賀古の郡もはじめのところがなく、赤穂の郡もないが、日本のほとんどの国が風土記を持ち得ないことを考えると、播磨の国は風土記によって、当時の状況を知ることができるのだから幸せである。

播磨を通る山陽道は重要

 朝廷が古代の道を整備し始めたのは、大化の改新から大宝律令制定に至る7〜8世紀にかけてである。いわゆる七道、山陽、山陰、北陸、東海、東山、南海、西海で、起点を都に開通させた。
 この道の要所毎に「駅」が設置された。「養老令」の注釈書『令義解』には「諸道の……30里ごとに駅を置け」とある。
 今の距離に換算すると、約16kmごとに駅が置かれたことになる。全国に推定400か所。播磨には山陽道9駅が設置された。明石、邑美、賀古、佐突、草上、大市、布勢、高田、野磨である。
 播磨の駅間は全国平均より短く、約10kmの間隔となっていることが、播磨国の特色である。政治経済上重要な地区であったから、数多くの駅が設置されたのだろう。

鉄は播磨国から生まれた

 播磨国の古代にはもう一つの重要な要素が存在した。それは「鉄」である。
『播磨国風土記』の宍禾(しさわ・穴粟)郡」の記述に
「敷草の村、草を敷きて神の座と為しき。故、敷草といふ。この村に山あり…檜、杉、栗、黄蓮、黒葛等生ふ。鐡を生ず」
とあり、敷草とは千種であるから、風土記編纂以前から千種の鉄は広く知られていたのである。
 今の千種町岩野辺は、国を占めた伊和大神がここでご飯を炊いたので、山の形もカマドに似ているという。
 また、この岩野辺は金山の神である金屋子神が日本ではじめて降り立った地で、ここから白鷺に化して産鉄の盛んな土地へ飛んで、たたら作業を見守ったと古い記録にある。