司馬遼太郎著「兜率天の巡礼」を読んで
世界牡蠣研究家 山本紀久雄
㈱マルト水産の「一粒の、総合芸術」に、港町坂越の氏神である大避(おおさけ)神社が、司馬遼太郎「兜率天の巡礼」の舞台になったと紹介されている。
この「兜率天の巡礼」は昭和32年12月の小説で、司馬遼太郎作品としては初期である。早速に読んでみた。
物語は、戦後のレッドパージで、大学教授を辞めさせられた閼伽(あか)道竜が主人公である。道竜の妻は、日頃いたって温和であったが、病気となり、長い病床のある日、突然道竜を指さし「怖いィ。お前の、お前の顔・・・。ああッ」と叫び意識を失い、昏睡のまま数日後に亡くなった。
この妻の叫びが気になり、妻の遠い親戚を訪ね、本家は播州の地にあって、当主が神社の禰宜をしているということを聞き、訪ねたところが兵庫県赤穂郡比奈の大避神社であった。
そこまでにいたる文中表現は「神戸駅から、山陽線に乗る。降りたのは、相生である。そこで一泊して翌朝、比奈という部落を目指して、二里の田舎道を歩いた。道は暑かった。
比奈の部落は、赤穂郡南部のひくい丘陵群が海に落ちこむあたり、なだらかな山ひだに囲まれて散在している」とあり、この地が坂越の大避神社である。
早速に、社務所に行き、宮司代務者の波多春満から「いすらい井戸」の水を提供さけ、飲むと共に、京都の太秦にある大酒(おおさけ)神社と訓が通じていて、そこに「やすらい井戸」という古い井戸あって、「いすらい」と「やすらい」の語呂が似ているが、これらは大正中期に英国人ゴルドンという女性学者が研究したもので、この地が古代ユダヤ人の渡来地だと説明を受ける。
さらに、祭神が三柱で、まず、天照大神、ついで春日大神、三番目が大避大神で、この大避大神は古事記になく異教の神であって、以前は大闢(だいびゃく)とも書き、この大闢とはダビデを意味すると聞く。つまり、古代ペルシャに勢力を得たネストリウス派が、コンスタンチノーブルを東へ逃れ、ペルシャを経てインドへ入り、インド東岸から陸を離れて中国沿岸をつたいつつ東海の比奈ノ浦へ流亡してきた、というのである。
この小説について、文芸評論家の磯貝勝太郎氏が同書中で解説している。
司馬遼太郎は生涯を通して、直木賞受賞作「梟(ふくろう)の城」以前の諸作品を、作家として書いたとはおもいたくないという。司馬遼太郎は少年のころから、モンゴル系の遊牧、騎馬民族の匈奴(きょうど)、蠕蠕(ぜんぜん)(5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家)などにひかれ、大阪外国語大学で蒙古語を学び、匈奴と関連ある騎馬民族のスキタイに興味をもち、スキタイに影響をあたえたペルシャ文化に対する関心をふかめた。
昭和24年夏のある日、産経新聞社京都市局の宗教担当であった司馬遼太郎は、銭湯でひとりの人物に会った。その紳士は、なに者とも知れぬ司馬に、「キリスト教を初めてもたらしたのは、聖フランシスコ・ザビエルではない。彼よりさらに千年前、すでに古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の渡来よりもふるかった。第二番に渡来したザビエルが、なにをもって、これほどの祝福をうけねばならないのか。その遺跡は京都の太秦にある」と話してくれたという。当時、ザビエルの日本上陸四百年を記念して、各地でさまざまな催しがおこなわれ、司馬も関連の取材をしていた。
その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、”日本古代キリスト教“の遺跡について指示してくれたので、兵庫県の比奈ノ浦(大避神社)や京都の太秦の遺跡を踏査して、それに関する記事を書き、「すでに十三世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と、締めくくった。
その記事は多くの反響をよび、海外の新聞にも転載された。その後、昼は、新聞社で、今日の「現実」を切りとる仕事をして、夜は、想念が、「現実」から抜け出して古代地図の上を逍遥し、「兜率天の巡礼」を書いたという。ちなみに、この古代ペルシャに勢力を得たネストリウス派が、ペルシャからインドに入り、中国沿岸をつたって、比奈ノ浦に着き、秦氏と称して、ダビデの礼拝堂や、大闢の社や、いすらい井戸を残したという奇説は、大正の末期に英国人の景教徒、A.G.Gordonによってたてられた。
この説をふまえて司馬遼太郎は物語を「兜率天の巡礼」を書いたのである。
以上が磯貝氏の解説要旨であるが、この小説は、他者から得た古代史を小説風に述べたということになると考えられるので、司馬遼太郎が「作家として書いたとはおもいたくないという」ことも何となく頷ける。
日本人とユダヤ人とは、風俗、習慣、言語、人種などで一致点が多いと、巷間、言われることがある。また、そのユダヤ人は、古代ユダヤ人としてのセム族のことと、長い歴史の中でカザール人がユダヤ人化したという、二つのユダヤ人が存在すると言われている。
カザール人とは、ユダヤ教に国ごと改宗したタタール系民族で、南ロシアに七世紀から十世紀にかけて周辺諸民族を帝国支配下に置いていたカザール(英語で「Khazar」、ハザルとも記す)王国起源ともいわれている。したがって、「ユダヤ人」の約九〇%は血統的に見ると「モーゼに率いられてエジプトを出たユダヤの民」の末裔ではないと言われている。
古代ユダヤ人が日本に来たという説は、いろいろな人によって唱えられている。そのひとつが、「兜率天の巡礼」で書かれたものである。しかし、このような書き方はどうでもよいことである。現代の我々には、数千年前の事実を明確には解明できない。だからこそ、歴史をロマンとして受け入れ、そのロマンが語られている地に立ち、遥かなる古代へ自らを導き、想いさすらうことも、現代の我々に時には必要であろう。その意味で、兵庫県赤穂市坂越にある大避神社を訪れることをお薦めする。
(大避神社)
さらに、坂(さこ)越(し)という地名にも由来がある。伝承によれば、皇極天皇の三年(644)、中国より渡来した秦氏の子孫で、聖徳太子に仕え、多くの功績を残した秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子亡きあと蘇我入鹿の迫害を避け、海路で坂越に来たという。これにより「避け来し」が「さこし」になった、と言い伝えられている。また、秦氏の一族である酒氏(さけし)が変化した、ともいう。
この秦河勝は、千種川流域の開拓を進め、大化三年(647)に八十余歳で亡くなり、この霊を祭ったのが大避神社の創建であるとも伝えられている。また、この大避神社から見える正面の小島が「生島(いきしま)」であり、秦河勝が「生きて着いた島」であることから名付けられたと伝えら、古来生島は神地であって、樹木を伐ることは勿論、島内に入ることも恐れられ、こうした信仰から樹木が原始林として育ち、大正十三年に国の特別記念物に、さらに、国立公園特別保護区に指定されている。したがって、原始林の190種余りの植物が群生している生島から、海に流れ込む水には自然が豊富に含まれており、海の栄養になって、坂越湾は特に牡蠣養殖に最適な環境となっている。
(生島)
やはり、大避神社へは、司馬遼太郎の「兜率天の巡礼」を手に持って出かけたい。そうすると、多分、現実の世界から、遥か昔の歴史ロマンに浸ることが出来るであろう。