江戸城での刃傷事件

  • 元禄十四年(1701年)3月14日江戸城にて、将軍徳川綱吉(1646-1709) は東山天皇の三人の勅使を迎えるための準備をしていた。勅使饗応役として二人の若い大名が指名され、その一人は播磨赤穂藩主の浅野長矩であった。この、重要な外交行事を指示する「指南役」は吉良上野介であった。若い浅野はまだこのような儀礼に慣れていなかったため、吉良の助言を求めたが、吉良は浅間が失敗するのを期待するかのように侮辱的であいまいな答えしか返さなかった。しかし吉良の態度は実際には誤解を生んでいたことが証明されている。侮辱を受けたと思った浅野は、刀を抜き吉良の額を斬りつけた。

切 腹

  • 将軍膝元である江戸城での争いは重罪に値する。両者は直ちに取り押さえられた。法により、取り調べも無いまま即罪が確定された。しかしながら吉良は、手向かいせず落ち着きを見せていたことから咎め無しとされた。一方、浅野は切腹を言い渡された。真の武士の掟に従い、浅野は自らの刀で腹を切った。その遺体は泉岳寺の墓地に埋葬された。


  • 更に罪状は浅野の死後浅野家の改易(身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収する)と解体を命じた。赤穂城の城主、浅野の筆頭家老の大石内蔵助は何度も恩赦の嘆願をしたにもかかわらず、幕府は情け容赦することはなかった。大石の嘆願は遂に却下された。浅野家の忠実な家臣達は武士としての権利を剥奪され、浪人(主人を失くした侍)となった。

赤穂浪士の結束

  • 失うものはもう何も無い四十七人の赤穂浪士は、吉良を浅野家崩壊の元凶であるとみなし、主への復讐として密かに殺害することで結束した。 仇討ちの時にあたって、当然のことながら復讐心に燃えた浪士達は 周囲に疑惑を抱かせた。四十七人の浪士は皆その疑いを晴らすように努めた。元筆頭家老の大石内蔵助は疑惑の目をくらます策略として、酔っぱらった振りをして京都祇園の旅籠屋、女郎屋等に入り浸った。大石の奇妙な放蕩三昧の振る舞いはすぐに嘲笑の的になった。浪人の中には平凡な商人になり、吉良邸の近くに店を構え吉良の行動を監視し、行動を起こすのに完璧なタイミングを待つ者もいた。そして一年半後にその復讐の時はやってきた。

討ち入り

  • 元禄十五年(1702年)12 月14日の夜、大雪が積もり寒風が江戸の狭い暗い小路を吹き抜けた。黒衣に身を包み、こん棒と木槌で武装し、梯子を抱えている陰謀者達が疑う者のいない吉良屋敷へ突入するのは難しいことでなかった。剣と鉄が激しくぶつかり合い、素早くさし抜かれた刀は火花を散らし、人はばたんばたんと地に倒れるという無情な戦いが展開された後、陰謀者達は遂に制覇した。 浪士達は、興奮して槍の先に掲げられた吉良の首を振り回しながら泉岳寺へ向かい、主人である浅野長矩の墓の上にその血にまみれたトロフィーを置いた。仇討ちを終えた後、浪士達は整然と寺から去り、当局に身を預けた
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赤穂義士の偉業

  • この事件は江戸で大きな騒ぎを巻き起こした。大石内蔵助と赤穂浪士達はすぐに“四十七人赤穂義士”や“忠誠な赤穂さむらい”等と称されるようになった。 浪士達は幕府の教える忠義という武士道の教訓を実行したにすぎなかったため、江戸城の幕閣達はこの対処に当惑した。しかしながら、浪士達の行動は暗に浅野の刑、すなわち幕府の下した法に背くものなので許されることではなかった。歴史上、この時代の処罰は通常即決されるものであったものの、このケースは切腹の命令が言い渡されるまでまる一ヶ月もかかった。判決後、慣習に従い浪士達は瞬きもせずに 腹を切った。
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謀反の精神

  • 18世紀には幕府の権威に反抗するというこの“仇討ち”が日本人の心を魅惑した。元禄赤穂事件の人気は広まり、歌舞伎や文楽で何度も上演された。検閲の注意をそらすために、脚本家は注意深く話を幾つかの挿話に分割し、それぞれの挿話が異なる時代背景にする等工夫した。幕府はそれに騙された訳ではなかったが、多くの脚本家が住む大阪の商人達の支持を失う訳にはいかなかった。このようにして明治時代末まで“忠臣蔵“の悲劇は5000回も上演された。更に元禄赤穂事件は喜多川歌麿、葛飾北斎、安藤広重等の日本版画や浮世絵の芸術家達が好んで作品の題材として扱った。

日本の神話

  • 明治時代以降、数えきれないほどの芸術品が忠臣蔵から生まれた。今日では、日本の印刷物、小説、漫画、映画、テレビドラマ等多くのメディアでこの話が描かれている。新たなエピソードが毎年12月14日の記念日に封切りされる。忠誠な赤穂義士は東京泉岳寺の浅野の墓の隣に眠っているが、義士達が最も崇拝されているのは赤穂の花岳寺である。